津 川 城
新潟県東蒲原郡阿賀町津川
立地・構造
 津川城は阿賀川の中流域、阿賀川と常浪川に挟まれ西方向に半島状に延びた麒麟山(標高191m)の南ー西面を城域とした山城です。規模は東西600m×南北180mほど。主郭麒麟山から西方向に延びた稜線先端(標高160m 比高60m)に位置し、北から南方向に高さ4−5mの段差で3段に削平され、下段部分の側面は石積で補強されています。この主郭の下に水の手郭が設けられ、城にとって重要な水の手を守備する郭と思われます。さらにこの下の常浪川沿いに大手口が想定される船着場が設けられていました。(未確認) 主郭の南東側中腹に二の郭が敷設され、東・西側斜面に竪堀が穿たれ二の郭への侵入を遮断しています。城域南麓の常浪川沿いは家臣屋敷地とされ、東・西側に木戸口が設けられていました。このうち東側の木戸口が搦手と推測され、自然地形の巨大な土塁と常浪川から引いた濠で区画されていました。麒麟山山頂部は狭小な岩山で、眺望に優れていることから物見として利用されたと思われます。麒麟山の北・南側斜面は急峻な断崖で川に落ち込んでおり、津川城は阿賀川と常浪川を最大の外郭ラインとした自然の要害だったと思われます。

 鎌倉初期、「奥州藤原討伐」に軍功のあった「相模三浦党」の佐原十郎義連は戦後、会津の地頭職に任ぜられ、次子の次郎兵衛尉盛連が会津に入部して六人の子息に所領を分知しました。このうち三子の盛義が河沼郡藤倉を分知されて藤倉氏を称し、さらに盛義の次子 盛弘が金上の地頭職を譲られ金上氏を称しました。そして津川城は盛弘が蘆名宗家から越後口の守備を命ぜられ、建長4(1252)年頃 築かれたと伝えられます。その後、盛弘の孫 政茂の代に金上氏は惣領 蘆名氏の執政となり、以後 政茂の家系は蘆名氏の重臣として津川城に在城して越後勢力との外交折衝に対処したとされます。そして津川城『塔寺八幡宮長帳』の応永二十六(1419)年の条「小河城」と、また永正十七(1510)年の条「津川狐戻城」と記されています。天正6(1578)年の上杉謙信の死去後、「御館の乱」が勃発すると蘆名修理大夫盛氏は三郎景虎を支持し、金上遠江守盛備(もりはる)に命じて越後に侵攻させ、喜平次景勝方の安田城を攻撃しています。また同9(1581)年に勃発した「新発田重家の乱」の際、蘆名左京亮盛隆は上杉景勝から新発田重家を援助しないよう求められましたが、金上盛備は表面的に中立を保ちながらも重家を支援したとされます。同15(1587)年、景勝は長期化する乱を終結するため新発田城攻略に動きます。そして景勝は蘆名氏の支援を封鎖するため、蘆名方の赤谷城を攻撃して盛備率いる蘆名勢を討ち敗り、新発田城を孤立させて乱を鎮圧しました。この間の同10(1582)年、盛備は甲斐武田を滅ぼした織田信長の代官 滝川一益(「関東管領」)と外交折衝を行っています。話は前後しますが、天正8(1580)年 蘆名盛氏が死去すると蘆名氏の家督は二階堂家から入嗣した盛隆が継ぎました。しかし同12(1584)年、盛隆が家臣に暗殺され、遺児の亀王丸が継いだものの幼少だったため蘆名家中は動揺し、さらに亀王丸が夭折したため、蘆名家中は米沢城主 伊達政宗の弟 小次郎を迎える伊達派と佐竹義重の次男 義広を迎える佐竹派に分裂しました。この緊急事態に盛備は佐瀬氏とともに小次郎を推す平田・富田氏の伊達派を抑えて、佐竹義広を蘆名家へ迎えることに成功しました。この「蘆名家の内訌」以降、伊達政宗は執拗に会津侵攻を繰り返し、同17(1589)年 「摺上原の戦」で蘆名勢を撃破、義広を常陸に追い落として会津制圧に成功しました。この際、盛備は嫡子 盛実とともに摺上原に出陣しましたが、佐瀬種常、佐瀬常雄等とともに討死しました。そして盛実はその後も上杉景勝の支援を受けて津川城で伊達勢に抵抗しました。天正18(1590)年、「奥州仕置」により蒲生氏郷が会津に入封すると 津川城に家臣の北川平左衛門が配されました。慶長3(1598)年、上杉景勝が会津に入封すると津川城に客将の藤田能登守信吉が城代として据えられましたが、同5(1600)年 信吉が徳川家康に通じて出奔したため、鮎川帯刀が城代に任じられました。「関ヶ原」慶長5(1600)年)後、蒲生秀行がふたたび会津に入封すると津川城に家臣の岡重政が据えられましたが、寛永4(1627)年 会津蒲生家は改易となり、伊予国松山から加藤嘉明が会津に入封した際、幕府の命により津川城は廃城になったとされます。
歴史・沿革
津川城 主郭に建つ城址碑
メモ
会津蘆名領 越後口の「境目の城」
 形態
山城
 別名
狐戻城・麒麟山城・小河城
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・虎口・石垣・堀・濠祉・水の手
場所
場所はココです
駐車場
麒麟山公園駐車場
訪城日
平成19(2007)年10月30日
津川城は津川市街地の北方、阿賀川と常浪川に挟まれた麒麟山の西側丘陵部を城域とし、現在 麒麟山公園になっています。(写真左上ー南西側からの遠景) でっ、麒麟山の南東麓から散策路が設けられ、しばらく進むと「鶴ヶ沼」と呼ばれる沼があります。(写真右上) でっ、沼から南側に延びる延長ラインは窪んでいて、常浪川に繋がっていることから、津川城の外郭ラインを区画した濠の名残りと思われます。(写真左・左下) またこの濠に沿って城側に巨大な土塁が築かれ、搦手の木戸口だったようです。(写真右下)
麒麟山の南麓に家臣屋敷地が構えられていたようです。(写真左上・右上) 規模は東西250m×南北50−60mほど、段差により幾つかの平場に区画されていたようです。ただ ・・・・・、常浪川との比高差は5−10mほどしかなく、増水時はどうしたのでしょうか?。家臣屋敷地の西端に木戸口が構えられ(写真右)、ここを過ぎると二の郭に繋がる登り道になります。(写真左下) でっ、登り道の側面に竪堀が見られます。(写真右下ー現地表示は「空堀跡」) 竪堀は二の郭の中央南縁から垂直に落とされており、物資を引き揚げる機能も想定されます。
二の郭(写真左上) 規模は東西90m×南北40mほど、現地表示では「馬場」と表記。東端に櫓台と思われる高さ0.5−1mの土壇が築かれ(写真右上)、さらに外側(東側)は岩盤剥き出しの斜面に竪堀が穿たれています。(写真左)
二の郭から主郭に向かう途中に南側下の舟着場に繋がる虎口が設けられています。(写真左下) 大手口に繋がる表門にあたるのでしょう。でっ、この下に水の手郭が設けられ、現在も井戸に湧水が確認できます。(写真右下) 管理人はここからさらに船着場(大手口)を目指しましたが、それらしき道はなく断念。
津川城の見どころのひとつは主郭の南側側面に構築された石積でしょう。(写真左上・写真右上) 「野面積」のような感もありますが、正面は面が揃っているようです。
主郭(写真右ー下段・現地表示は「出丸」) 内部は北から南方向に3段に削平され、それぞれ高さ4−5mの段差で区画されています。でっ、段差部分の一部に岩盤を砕いたような箇所も見られます。(写真左下ー中段 写真右下ー上段) なお上段に城址碑が建てられています。
(写真左上) 主郭上段の城址碑。
主郭東側の稜線を断ち切った堀は幅7−8m×深さ4−5mほど(写真右上)、堀を渡った先に金上稲荷が祀られています。(写真左) 稲荷社は金上盛弘が津川城を築いた際、守護神として祀った小祠を初源とし、江戸期 鵜川兵衛門が金上盛備の霊を合祀したと伝えられます。
管理人は金上稲荷から麒麟山山頂を目指しました。傾斜はそれほどキツクはないのですが、最後は岩盤剥き出しの岩山を直登します。(写真左下) でっ、山頂からは阿賀川の下流方向を眺望できます。(写真右下)
津川(写真左上) 江戸期、会津街道の要衝 津川は会津から陸送された物資を阿賀川下流に水運で運ぶ物資の集積地・河湊が置かれていました。(写真右上) 会津藩はここに代官所を置き(写真右)、河湊の管理と運上金の徴収を行いました。河湊周辺に藩の米蔵、塩蔵、蝋蔵、物産問屋などが立ち並び、船着場は「大船戸(大船場)」と呼ばれ、150隻もの帆掛船が発着し、船荷を積み下ろしする丁持衆が100人ほど働いていたと伝えられます。 しかし明治以降、鉄道の開通や自動車輸送の発達により衰退を余儀なくされ、さらに下流のダム建設により河港としての機能を失いました。
秋田の中世を歩く