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金上館は会津盆地の中央西部、鶴沼川北岸の微高地に築かれた平城で、周囲を土塁と濠で囲った単郭の方形館と推測されます。規模は推定 東西90m×南北80mほど、虎口は越後街道に面した南側に設けられていたと思われます。
築城時期は不明。『会津古塁記』に「金上村舘 東西七十五間 南北八十間 北田次郎広盛築く。北田に戻り其跡へ藤倉石見守盛経 子伯耆守盛広 移り住す。又 津川に城を築き移る。子孫 金上を家苗にす」と記されて |
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います。築城主体・館主は会津蘆名氏の庶流と伝えられる金上氏とされます。鎌倉初期、相模三浦一族の佐原十郎義連は「奥州藤原討伐」の軍功により源頼朝から会津四郡の地頭職に任ぜられたことが蘆名氏と会津の繋がりの初源となります。そして鎌倉初期、会津に入封した義連の嫡子 遠江守盛連は六人の息子に所領を分知し、三男
盛義に河沼郡藤倉に所領を宛がいました。そして盛義の次男 盛弘が金上の地頭職を分知され、金上氏を称したのが金上氏の初源とされ、この頃 金上館は築かれたものと推測されます。建長4(1252)年、盛弘は蘆名宗家から越後口の防衛を命じられ、津川城を築いて移り住みましたが、金上館は津川城に移るまで居住した金上氏の居館と推測され、金上氏が津川に移住したあとも金上氏の一族あるいは家臣が居住していたと思われます。 |
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会津蘆名氏の庶流 金上氏の居館 |
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平城(方形館) |
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金上村館 |
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郭(平場)・土塁痕・濠祉 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成19(2007)年10月30日 |
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金上館は金上集落のちょうど 中央部に位置します。(写真左) 館内部は一般の宅地になっているため、管理人は周辺を徘徊しました。周囲に敷設されていた濠は完全に埋めたてられ車道になっていますが、館内部に土塁が残っているため、城の外縁塁線は確認できます。土塁は高さ1−1.5mほどと思われます。(写真左下ー北側の塁線
写真右下ー西側の塁線) |
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