藤 倉 館
福島県会津若松市(旧河東町)河東町倉橋字藤倉
立地・構造
 藤倉館は会津盆地の中央北東部、平野部に築かれた平城で、土塁と濠で囲郭された単郭構造の方形館と推測されます。規模は東西65−70m×南北55−60mほど、周囲に構築された土塁は高さ2−3m、濠は幅4−5mほど、虎口は南側中央に開き 土橋で外部と繋がっていました。現在、館祉は一般民家の住宅宅地になっています。

 鎌倉初期、相模三浦一族の佐原十郎義連
「奥州藤原討伐」の軍功により源頼朝から会津四郡の地頭職に任ぜられ、嫡子の遠江守盛連の代に会津に入部したと伝えられます。『芦名系図』によると盛連は六人の息子に所領を分知し、庶長子の経連に耶麻郡猪苗代を、次男 広盛に河沼郡北田を、三男 盛義に同郡藤倉を、四男 光盛に蘆名家の家督を継がせ、五男 盛時に耶麻郡加納荘を、六男 時連に同郡新宮を所領として宛がい それぞれが本貫地を称しました。藤倉館の築城時期は不明ですが、13世紀初期頃 佐原(藤倉)盛義により築かれたと推測されています。南北朝ー室町初期、蘆名惣領家は一族の惣領支配を強化しようとしたため、庶子家はこれに反発し 惣領家対庶子家、庶子家対庶子家の抗争が激化しました。この際の藤倉氏の詳細な行動は不明ですが、この抗争で加納佐原氏、北田氏、新宮氏は没落しており、藤倉氏も没落したものと推測されます。なお盛義の次男 盛弘は河沼郡金上を分知されて金上氏を称し、建長4(1252)年頃 越後国蒲原郡に進出して津川城を築き拠点としています。そして後に金上氏の家系は蘆名氏の執政(筆頭家老)となりました。なお『会津古塁記』藤倉村塁 東西八十三間 南北七十五(八十六)間 建久三年壬子佐原三郎盛義築く。藤倉氏之祖なり」と記されています。
歴史・沿革
藤倉館 南側の虎口と濠
メモ
会津蘆名氏の庶流 藤倉氏の居館
形態
平城(方形館)
別名
藤倉村塁
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・濠・土橋
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年11月1日
藤倉館は会津盆地の中央北東部に築かれた平城です。館は濠と土塁で囲まれた方形館、周囲に遺構が良好に残存しています。(写真左上ー南側の濠 写真右上ー東側の濠 写真左ー東側の土塁)
暦応の碑(写真左下) 南北朝期に刻まれた三基の板碑群。右から阿弥陀如来を表す「キリク」、観音菩薩を表す「サ」、勢至菩薩を表す「サク」が刻まれています。
皆鶴姫の碑(写真右上) 藤倉館に直接関係がありません。源義経ゆかりの皆鶴姫の墓碑と伝えられます。
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