秋田の古代を歩く
 秋 田 城
秋田県秋田市寺内大畑
立地・構造
 秋田城は秋田平野の中央北西寄り、高清水丘陵(標高50m前後)に築かれた国府国衙プランを基本とした古代官衙施設です。全体の規模は550m四方ほど、内部中央に東西90m×南北80mの方形の政庁域(内郭)を配し、政庁域の周囲を不整方形の外郭で囲う構造になっています。また外郭の外部からも遺構が確認されており、広義の秋田城はもっと広範囲にわたっていたと思われます。現在、城址は護国神社の境内、住宅地になっていますが、政庁域外郭東部、外郭外の鵜ノ木地区で確認された遺構がわかりやすく平面表示されています。

 秋田城『続日本紀』の天平五(733)年十二月二十六日の条出羽柵遷置於秋田村高清水岡」と記された出羽柵がこれにあたると推測され、大和政権が蝦夷統治の拠点とした出羽柵をこの頃 庄内から秋田(高清水岡)に移したのが秋田城

現地パンフレットの所収図
初源とされます。その後、天平宝字4(760)年 出羽柵秋田城と改称され出羽国北部の軍事、行政の中心として機能したと推測されます。しかし延暦23(804)年、蝦夷の叛乱が頻発すると国府機能を他に移したとされます。天長7(830)年、秋田地方の大地震により秋田城は甚大な被害を被り、また元慶2(878)年 蝦夷の武力蜂起により秋田城は蝦夷の襲撃を受けて占拠されています。(「元慶の乱」) また天慶2(939)年、蝦夷の叛乱により秋田城周辺で交戦があったとされます。(「天慶の乱」 『日本紀略』「後三年の役」(1083−87年)後、藤原氏が平泉を拠点に奥羽を支配するようになると(11世紀末ー12世紀末)、官職としての秋田城介は遙任化されて形骸化し、秋田城の機能は衰退しました。
歴史・沿革
秋田城 復元外郭東門
メモ
大和朝廷の古代官衙施設 「出羽国府」
形態
古代官衙施設
別名
出羽柵
遺構
復元政庁東門・復元外郭東門・復元築地塀・建物祉・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
秋田城址出土品収蔵庫の駐車場 OR 護国神社の駐車場借用
訪城日
平成17(2005)年6月16日 平成17(2013)年9月19日
秋田城は秋田市街地の北西部、高清水の丘に築かれた古代官衙施設です。(写真左上ー東側からの近景 写真右上ー東側の谷地) でっ、管理人は東側の鵜ノ木地区に行き、ここから政庁域を目指しました。鵜ノ木地区には外郭東門に通じる大路が復元され(写真左)、周囲に発掘調査から確認された大小の建物祉、井戸祉、厠屋等が復元・表示されています。(写真左下・右下) なお奈良期、渤海国からの使節がたびたび出羽に来着しており、鵜ノ木地区にある大型建物は迎賓館機能が想定されているようです。
(写真左上) 復元された竪穴式住居
(写真右上) 井戸祉
(写真右) 大型の井戸祉
(写真左下・右下) 復元された厠屋、掘立柱建物で建てられた厠屋内部は3つの個室になっていて、排泄した汚物は木樋を通って背後の沼地に排水する構造になっていたようです。この際、沼の汚染を少なくするため、沼の手前に沈殿槽を設けて上澄みだけを沼に流すよう工夫されています。
外郭部分は東西550m×南北550mの不整方形、内部は広範囲にわたり、現在 護国神社の境内や一般の住宅地になっています。でっ、遺構として外郭東門とこれに連なる築地塀が復元されています。(写真左上・右上) 築地塀は基底幅2m×高さ3m以上。鵜ノ木地区からの大路(幅10m)は外郭内部を東西に貫き(写真左)、政庁域(内郭)の東門に繋がっています。(写真左下)
(写真右下) 政庁域の模型、正面が南側
政庁域(内郭)の規模は東西90m×南北80mほど、周囲を築地塀で囲った方形になっていて、各辺の中央に門が構えられていました。でっ、現在 東門とこれに隣接した築地塀が復元されています。(写真左上・右上) 発掘調査から中央部に正殿が確認され、正殿の南側にコの字状に西脇殿・東脇殿が、正殿の北側に北東建物が確認され平面表示されています。(写真右ー正殿 写真左下ー東脇殿 写真右下ー北東建物) 建物配置は古代の国衙形式を踏襲したものとなっています。
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