五 龍 城
広島県安芸高田市(旧甲田町)甲田町上甲立
立地・構造
 五龍城は江の川と本村川に挟まれ北東方向に半島状に延びた丘陵稜線(ピーク標高312m 比高130m)に築かれた山城で、大きくは稜線尾
現地説明板の図
根を3ブロックに分割して郭を普請した直線連郭構造の城郭です。 ブロックは東側からT郭群尾崎丸ー物見の段ー一位の段ー八大龍山」)ーU郭群矢倉の段ー三の郭ー二の郭ー桜の段ー姫の丸ー主郭)ーV郭群御笠丸)からなり、それぞれ西端(最高所)の郭に土塁が築かれ、背後の郭とは堀で分断されています。本城域はU郭群と想定され、各郭は高さ3−10mの切岸で区画され、主郭背後には高さ5−6mの下部を石積で補強された大土塁が築かれ、V郭群と分断されています。五龍城は江の川と本村川を北ー東ー南側を防御する濠として取り立て、大手口と想定される北側の本村川対岸には家臣屋敷地が想定されます。城は東西800mにわたり構築され、T郭群・U郭群・V郭群ともに城郭として完結しており、軍事緊張が続くなか、改修される度に西方向に城域が拡張され、現在見られる形態になったものと推測されます。

 築城時期は不明。城主 宍戸氏は鎌倉御家人 宇都宮氏の庶流 八田右馬頭知家を祖とします。知家は治承4(1180)年の源頼朝の旗揚げに参陣し、以後 頼朝の厚遇を得て鎌倉幕府の要人となり、常陸国守護職に任ぜられました。そして知家は嫡男の知重に本拠地小田を分知し、四男 家政に「宍戸荘」を分知して、以後 家政の家系は宍戸氏を称することとなります。南北朝期の当主 宍戸安芸守朝里(朝家)は鎌倉幕府の討伐戦に参加し、建武元(1334)年には安芸守に任ぜられて安芸国「甲立荘」の地頭職に補任されました。その後、朝家は「建武政権」から離脱した足利尊氏方に加担して各地を転戦、14世紀中頃(貞和、観応、文和、延文年間頃か?) 安芸に入部し、五龍城を支配拠点として築いたとされます。15世紀末期、宍戸氏には新しい血が入ります。この頃の当主 安芸守興家が暗愚だったため宍戸氏の治世は混乱をきたし、家臣がたまたま当地に立ち寄っていた常陸宍戸家出身の元家を当主として擁立したことです。(ただしこれには後日談があり、元家以降の安芸宍戸氏の墓所は現存するものの、元家以前の安芸宍戸氏の墓所は現存しておらず、元家が宍戸氏の家督を強奪したことを隠蔽する為、歴代宍戸氏の墓所を破壊したと推測されています) 元家については安芸宍戸氏の庶流を想定するのが自然で、興家以前を「前宍戸」、元家以降を「後宍戸」と称するようです。文明10(1478)年、宍戸家の家督を継承した元家は甲立盆地の失地回復に努め、三吉領・石見高橋領・郡山城主 毛利領に攻め込み、毛利氏とは継続的な緊張関係になりました。そして元家の嫡男 雅樂頭元源(もとよし)はたびたび毛利氏と抗戦を繰り広げ、永正8(1512)年 毛利治部少輔興元が中心となって結成した「安芸国人一揆」には参加せず、宍戸氏の独立性を保持しました。宍戸氏との抗争に益がないとみていた毛利元就は天文2(1533)年、元源と和睦し 翌年には元源の嫡孫 安芸守隆家に長女(五龍の方)を輿入れさせました。同9(1540)年の出雲月山富田城主 尼子晴久の「安芸侵攻」では、隆家は備後口を守備し五龍城祝屋城で尼子軍を撃退、その後 尼子勢が石見路から吉田に入り郡山城を包囲すると、五龍城を元源に 祝屋城を元源の弟 深瀬隆兼に任せて備後路からの尼子軍の兵糧運搬路を遮断しました。そして郡山城籠城戦」と呼ばれるこの(いくさ)は、大内軍の援軍を得た毛利方の勝利で終結しました。この後、隆家は毛利氏と行動をともにし、弘治元(1555)年の「厳島の戦」から始まる毛利氏の中国・北九州侵攻には主に吉川元春と軍事行動をともにし、毛利氏一門衆として元就・隆元から重用されました。文禄元(1592)年、隆家が死去すると宍戸家の家督は嫡孫の備後守元続が継ぎ、「文禄・慶長の役」では毛利軍の中核として出陣しています。慶長3(1600)年の「関が原の戦」で主家 毛利輝元が西軍に加担したため、戦後 毛利氏は防長二州に押し込められ 萩に移封されました。そして元続も輝元に同道して萩に移り、宍戸氏は江戸期を通じて萩藩毛利家の家老をつとめました。五龍城は元続が萩に移った慶長4(1601)年に破却。
歴史・沿革
五龍城 主郭背後の大土塁
メモ
安芸の有力国人 宍戸氏の館城
形態
山城
別名
・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・石積・堀・土橋・水の手
場所
場所はココです
駐車場
東麓に駐車スペースあり
訪城日
平成18(2006)年3月17日
五龍城は江の川の左岸、北東方向に延びた丘陵稜線に築かれた山城で、大きくは尾崎丸等のT郭群主郭を含むU郭群御笠丸V郭群からなります。(写真左上) でっ、五龍城へは北東麓の宍戸司箭神社参道から入り(写真右上)、登り切った尾根先端に宍戸司箭神社が祀られています。(写真左ー尾崎丸) 神社の背後に物見の壇と表示されている高台(大岩)があり、木戸口を兼ねたものだったようです。(写真左下) でっ、物見の壇の上部に一位の壇が設けられています。(写真右下)
八大龍山(写真左上)
規模は東西50m×南北25−30mほど、ここがT郭群の中核と思われます。西側縁に高さ1.5−2mの土塁が築かれ、幅7−8mの堀に架かった土橋でU郭群矢倉の壇)に繋がっています。(写真右上・右) でっ、土橋から矢倉の壇は高さ15mの切岸で仕切られています。(写真左下) 矢倉の壇の規模は東西40m×南北20mほど、削平は甘く東端に大手筋を監視する櫓が設けられていたのでしょう。(写真右下)
三の郭付近から尾根は広がりをみせ、このため三の郭は帯状の幅の狭い郭になっています。(写真左上) また三の郭の切岸周辺にはおびただしい量の崩落石塁が見られます。(写真右上) 三の郭の北東縁に高さ1−1.5mの土塁が築かれ(写真左)、この下部に釣井の壇があります。(写真左下)
二の郭(写真右下)
主郭部の北東ー東側をカバーした幅10m前後の帯郭。上位郭(桜の壇)との比高は10m以上。
桜の壇(写真左上)
主郭・姫の壇の東側下に敷設された小郭で規模は東西10m×南北20mほど。
主郭(写真右)
規模は東西50m×南北20mほど、東側に1mの段差で姫の丸(写真右上)が配置されています。西側縁部には下部を石積で補強した高さ5−6mの大土塁が築かれ(写真左下)、背後は10m以上切り落とした巨大な堀切で西側稜線を分断しています。(写真右下)
主郭から御笠丸に繋がる尾根筋は竪堀(写真左上)、小規模の二重堀(写真右上)が2か所に普請され、御笠丸への導線を遮断しています。御笠丸は西側の頂部から東方向になだらかに延びた稜線を高さ5−6mの段差で区画した階段状の3郭からなり、各郭は南側斜面に敷設された犬走(写真左)から坂虎口で繋がっています。(写真左下) また虎口部分に石積が見られるほか、導線の各所に土留めと思われる石積が見られます。(写真右下)
御笠丸(写真左上・右上)
御笠丸は東から一の塁ー二の塁ー三の塁と呼ばれる3郭の段郭群からなり、全体として規模は東西130−140m×南北25−30mほど、城内最大のまとまった平場になっています。三の塁(西端の郭)の西縁には高さ3−4mの土塁が築かれていますが、石積はされていません。(写真右) でっ、土塁の背後は約10mの切岸で削崖され、尾根の鞍部に幅7−8mの堀が穿たれ、土橋で搦手尾根に繋がっています。(写真左下) でっ、この土橋に隣接して貯水池祉と思われる巨大な窪地が2ヶ所 確認できます。(写真右下)
さらに貯水池の西側には尾根を切り落として普請されたと思われる郭が確認できます。(写真左 足軽の壇足軽の壇は搦手を警備した番所だったのでしょう。
 
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