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郡山城は吉田市街地北方の郡山全体を城域とした大要塞です。(写真左上ー南東側からの遠景) 城へはいくつか登山ルートが設けられていますが、管理人は南西麓の安芸高田市歴史民俗博物館を見学した後、ここからアプローチしました。(写真右上ー登口)
でっ、登口を若干 登った平場が洞春寺の跡地で、ここに「百万一心の碑」が建てられ(写真左)、毛利興元・幸松丸・隆元夫人の墓(写真左下)、毛利元就の墓が建てられています。(写真右下) 「百万一心の碑」は毛利元就が郡山城を拡張する際、人柱の代わりに「百万一心」と刻んだ石碑を埋めたと伝えられます。 |
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青光井山(写真左上) 郡山城から多治比川を挟んだ南西2kmに位置し、天文9(1540)年 尼子晴久が本陣を敷いたとされます。 |
御蔵屋敷(写真右上) 主郭の西側下に位置し、規模は東西20m×南北30mほど。兵糧蔵祉と思われます。 |
釣井の壇(写真右) 主郭の北西側下に位置し規模は幅15m×長さ75mほど。内部に石組井戸が残っています。 |
姫の丸壇(写真左下) 主郭から北側に延びた稜線を加工した郭群で3段に削平され、釣井の壇とは犬走りで繋がっています。(写真右下) |
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釜屋の壇(写真左上) 主郭の北東側下に位置し規模は東西24m×南北20mほど。ここから北東方向に延びた稜線は4−5段の段郭群に加工され、先端に羽子の丸が設けられています。 |
羽子の丸(写真右上) 釜屋の壇の先端ピークに構築された郭で規模は東西20m×南北30mほど。釜屋の壇とは幅6−7mの堀切で分断され(写真左)、独立性の高い平場になっています。 |
厩の壇(写真左下) 三の郭の南東側下に位置し規模は東西24m×南北17mほど。この郭を基準に南東側稜線は段郭群に加工されています。(写真右下) |
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三の郭(写真左上) 規模は東西40m×南北47mほど、内部は高さ1mの石積段差で区画された東ー西ー南の3ブロックになっています。(写真右上ー段差)
でっ、御蔵屋敷からの大手導線は桝形虎口で西側の段に繋がっています。(写真右) また西側の切岸部分に石積の痕跡と崩落石塁が見られ、往時は総石積で構築されていたのでしょう。(写真左下)
なお主郭ー三の郭間は階郭式に郭が構築され坂虎口で上位郭に繋がっています。(写真右下ー二の郭への導線) |
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二の郭(写真左上・右上) 規模は東西38m×南北20mほど、内部は高さ0.5m×幅1mの石塁列で方形(27m×15m)に区画されています。 |
主郭(写真左) 規模は35m四方ほど、北端に櫓台が想定される土壇(東西23m×南北10m×高さ3m)が構築されています。(写真左下ー櫓台) |
勢溜の壇(写真右下) 主郭から南西側に延びた長大な稜線を加工した9−10段からなる段郭群。 |
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満願寺祉(写真左上) 毛利氏が郡山城を築く以前からあったとされる古刹。後に毛利氏の移封に帯同して広島⇒萩⇒防府に移っています。 |
妙寿寺郭(写真右上) 規模は東西24m×南北41mほど。 |
尾崎丸(写真右) 勢溜の壇先端から南東方向に延びた稜線ピークに構築された郭で、規模は東西42m×南北20mほど。北側の稜線続きを土塁と堀で断ち切り、前後は小郭で処理されています。(写真左下)
毛利隆元の居館祉と伝わります。 |
毛利隆元の墓所(写真右下) 郡山の南麓、常栄寺祉に弔なわれています。 |
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