多 治 比 猿 掛 城
広島県安芸高田市多治比
立地・構造
 多治比猿掛城は多治比川右岸の烏帽子山(標高528m)から北東方向に延びた尾根先端(標高370m 比高130m)に築かれた山城で、稜線の小ピーク(出丸・主郭・物見丸)に築かれた郭群からなります。主郭は東西20m×南北50mほど、北端には櫓台が、南側縁部には土塁が築かれ、北ー西側に腰郭が配置されています。主郭から南側尾根のピーク(標高430m 比高180m)には物見丸が配置され、規模は15m四方ほど、北・南側の尾根筋は堀切で遮断し、東・西側は切岸で削崖され、主郭・物見丸間の稜線は竪堀をともなった二重堀で断ち切られています。主郭への大手筋は北西側中腹の教善寺からのルートが想定され、ルートに隣接する斜面には大小10数段からなる段郭群(「寺屋敷郭群」)が普請され、郭群の西側には防御施設として長大な竪堀(幅5−6m)が普請されています。主郭の北西側尾根の先端(比高40m)には出丸が築かれています。この出丸が築城当初の多治比猿掛城と想定され、城の周囲は急峻な崖、尾根続き部分は狭まり、独立した城郭として完結した形態になっています。郭配置は北から主郭ー二の郭ー三の郭が階段状に構築されています。三郭の規模・構造はそれぞれ単純で小規模なものですが、三郭がそれぞれ有機的に連繋し機能補完していたと想定され、築城当初の簡略な居館プラン(出丸)から順次、本城(主郭)・物見丸を拡張したものと推測されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。もともと毛利氏領西側を通る「石見路」を監視する支城として築かれたと推測され、毛利氏がこの方面に進出した15世紀初期に築かれたものと思われます。明応9(1500)年、郡山城主 毛利備中守弘元は室町幕府と周防国守護職 大内義興との軋轢から、家督を嫡男の治部少輔興元に譲り次男の松寿丸(後の元就)を連れて猿掛城に隠居しました。そして永正3(1506)年、弘元が死去すると松寿丸が猿掛城主となりました。同13(1516)年、兄 興元が死去し家督を興元の子 幸松丸が継ぐと、元就は幸松丸の後見をすることとなりました。しかし幸松丸の外戚 高橋元光が毛利家の家政に干渉したため毛利家中は混乱をきたし、その隙をついて翌14(1517)年、安芸国守護職 武田刑部少輔元繁(銀山城主)は毛利領に侵攻します。このため毛利は隣国の吉川氏とともに有田城救援に動き、武田勢と対峙しています。(「有田中井出の戦」) 大永3(1523)年、幸松丸が死去すると毛利氏の家督を巡って、元就と月山富田城主 尼子氏が支援する弟の相合元綱が対立します。この際、元就は元綱と元綱派の桂広澄・渡辺勝等の有力家臣を粛清し、毛利家の家督を相続して郡山城に入城しました。その後の猿掛城の消息は不明ですが、永禄6(1563)年 九州から出雲に転戦中の毛利隆元が吉田に立ち寄らず、「吉田郡山の御山下 多治イへ御着され」たことから、この頃 猿掛城「石見路」を守備監視する城砦として機能していたものと推測されます。
歴史・沿革
多治比猿掛城 主郭背後の堀切
メモ
毛利本城 郡山城の支城
別名
多治比城 
形態
山城
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
教善寺の駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年3月16日
猿掛城は多治比川の右岸、烏帽子山から北東方向に延びた尾根の小ピークに築かれた山城で、大きくは出丸ー主郭ー物見丸からなります。(写真左上) 主郭へは教善寺脇に登り口があり(写真右上ー教善寺 写真左ー登り口)、また物見丸へは毛利弘元の墓所(写真右下ー悦叟院祉)から山道があり、山麓登り口⇒主郭物見丸⇒毛利弘元墓所を一周できるようになっています。(逆も可能) でっ、登り口からの登山道は長大な沢状の竪堀で制約され、途中の斜面は「寺屋敷郭群」と呼ばれる段郭群に加工されています。(写真左下)
主郭(写真左上)
規模は東西20m×南北50mほど、北端に高さ5−6mの櫓台状の土壇が(写真右上)、南側縁部に高さ1mの土塁が築かれています。(写真右) 虎口は北西側に開き、主郭下の小郭群で虎口を防御する構造になっています。主郭背後(南側)は10m切り落としたキツ 〜〜 イ切岸に加工され、下部は浅い堀で処理されています。(写真左下) 堀自体は浅いものですが主郭側は絶壁になっています。また堀は長大な竪堀(自然の谷)をともなっています。(写真右下)
でっ、管理人は主郭から物見丸をめざしました。稜線はそれほどキツイ斜面ではなく、比較的楽な道になっています。(写真左上) 途中、緩斜面から急斜面に切り替わる直前は堀で遮断され土橋で導線が確保されています。(写真右上) 堀の規模は幅10m×深さ3−4mほど、さらに進むと稜線はなだらかになり規模の大きい堀切にぶちあたります。(写真左) でっ、この上に物見丸があります。(写真左下) 規模は15m四方ほど。北側のほか、南側稜線も堀で遮断し(写真右下)、東・西側はキッチリ切岸が削崖されています。規模は小さいですがよく加工されています。
ー 出 丸 ー
主郭から北西方向に延びた尾根先端に築かれた郭群で築城当初の多治比猿掛城に想定されます。規模は東西50m×南北100mほど、郭群は北から主郭(写真左上)ー二の郭(写真右上)ー三の郭(写真左)が「一二三段」状に構築されています。主郭の規模は東西20m×南北50mほど、北端に高さ5−6m×15m四方の櫓台が築かれています。規模は小さいものの、日常居館が想定される教善寺の前面をカバーする形態になっています。北側先端からは多治比川に沿った「石見路」が一望にできます。(写真左下・右下)
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