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穴水城は能登内浦穴水湾に面し、南西方向に突き出した小丘陵の突端(標高61m)に築かれた平山城で、丘陵続きとなった北東側の稜線を堀で分断して城域を区画していたと推測されます。規模は東西150m×南北200mほど、南西端の丘陵突端(後城山)部分に主郭を中心とした中枢が構えられていたようです。主郭の規模は東西30m×南北20mほど、主郭の西側下に二の郭が敷設されています。さらに主郭・二の郭の北ー西ー南側下に主郭・二の郭をカバーするように帯郭が敷設され、変則的な階郭構造で構築されています。また後城山の南東麓には入江が切り込み船着場があったとされ、穴水城は水軍基地を兼ねた城郭だったと推測されます。大手筋は北側の北七海から稜線を通るルートが想定され、搦手筋は北側に切り込んだ沢から北西麓に繋がるルートが想定されます。
築城時期・築城主体ともに不明。城主 長氏は平安末期の北面の武士 長谷部宿禰忠連を祖とし、忠連の孫 左兵衛尉信連が以仁王に近侍していましたが、治承4(1180)年
以仁王の平家打倒が露見すると平氏に捕縛されました。そして平家滅亡後の文治2(1186)年、鎌倉御家人となった信連は能登国「大屋荘」の地頭職に補任され、長谷部氏と能登が結びつくこととなります。そして「大屋荘」(現在の輪島市周辺)に下向した信連は五人の子を領内の「村地頭」として分知し、鎌倉期を通じて長谷部氏は惣領家を中心とした強固な同族武士団に成長しました。南北朝期、長左衛門尉盛連は後醍醐天皇の討幕運動に参加して軍功をあげましたが、建武3(1336)年 足利尊氏が「建武政権」に叛旗を翻すと北朝方として行動しています。しかし盛連の嫡子 九郎左衛門尉国連は「観応の擾乱」で足利直義方に加担し、その後 南朝勢力として行動し、弟の宗連に家督を譲って薩摩の所領に移り住みました。宗連の死去後、長氏の家督は国連の嫡子で「櫛比荘」(現在の門前町周辺)の地頭職 遠江守正連が継承し、正連は長惣領家の復権を画策して室町幕府に近ずきました。そして正連は幕府御家人となり、代々の当主は在京して「応永の乱」「嘉吉の乱」の際、幕府軍に加担して出陣しています。しかし長惣領家の在京中、「大屋荘」は同じ「大屋荘」の国人 温井氏に侵食され、このため長氏は「櫛比荘」から穴水に拠点を移したと推測されています。「応仁の乱」(応仁元年)後、能登国守護職 畠山左衛門佐義統が能登に下向すると、長氏は畠山氏の勢力下に置かれ、長享2(1488)年 加賀の一向一揆の攻撃を受けた長教連は穴水城で自害したと伝えられます。守護職 畠山氏の能登下向後、その支配下に入った長氏は守護代の遊佐氏や能登衆の温井氏、飯川氏とともに畠山氏の重臣となりましたが、畠山家中は内訌、家臣間の対立が頻発し、次第に勢力を弱体化させていきます。天正3(1575)年、越中を制圧した上杉謙信は能登に侵攻し七尾城を包囲します。そして翌4(1576)年、上杉軍の猛攻が開始されましたが、七尾城の守りは固く落城に至らなかったため、謙信は遊佐続光、温井景隆、三宅長盛を内応させて七尾城の攻略に成功しました。この際、長対馬守続連、九郎左衛門尉綱連父子は上杉軍の攻撃を受けて討死にしましたが、続連の三男 連龍は安土城の織田信長のもとに救援依頼の使者として出ていたため難を逃れました。同6(1578)年、連龍は穴水城を回復しましたが、上杉方の遊佐、温井勢の攻撃を受けて越中に逃れます。同年、謙信が死去すると遊佐続光、温井景隆は能登から上杉勢力を駆逐し、七尾城を奪還して織田信長と誼を通じます。さらに遊佐、温井氏は連龍にも和睦を求めましたが、連龍はこれを拒否して羽咋郡に侵入し遊佐、温井勢と対峙しました。同9(1581)年、七尾城が織田方に接収され、前田利家が能登国主になると連龍は鹿島半郡の領有を許され、利家の与力に組み込まれました。このため連龍は穴水城から鹿島郡に拠点を移しましたが、同11(1583)年 前田利家が「穴水城普請之用」として鳳至郡諸橋六郷の百姓に用材と人足の出役を命じていることから、穴水城は天正末期頃まで使用されたものと推測されます。 |
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奥能登の有力国人 長氏の館城 |
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山城 |
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白波城・白藤城・岩立城 |
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郭(平場) |
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場所はココです |
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専用駐車場あり |
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平成21(2009)年6月23日 |
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穴水城は穴水湾に面した断崖上に築かれた平山城です。(写真左上ー南側からの遠景) でっ、城へは車道が整備され、主郭下まで楽に登ることができます。主郭周辺の縄張りは、主郭を中心に西側下に二の郭が配し、主郭・二の郭の北ー西ー南側をカバーするように帯郭(写真右上ー三の郭?)が巻かれています。主郭の規模は東西30m×南北20m(写真左)、二の郭が東西40m×南北20mほど。(写真左下) 主郭の東側に堀切が、斜面部分に段郭群があるようですが、藪が酷く未確認。(写真右下) |
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