阿 仁 鉱 山 町
秋田県北秋田市(旧阿仁町)阿仁銀山町
 阿仁鉱山は延慶2(1309)年、この地から金山が発見されたことを初源とし、近世 久保田佐竹藩時代に鉱山は大規模に開発されました。当初、佐竹藩は金銀を主力に産出しましたが、後に銅産出に移行し享保元(1716)年には銅の生産量日本一になっています。藩政期、鉱山は阿仁川の支流になっている小沢、大沢、真木、三枚、一の又、二の又、萱草、天狗平、黒滝、糠内、嘉久知地区に広がり、産出された鉱石は銀山地区から舟に乗せ 阿仁川⇒米代川を通って加護山製錬所まで運んでいました。このため銀山地区は image2877.jpg
現地リーフレットの案内図
物資の集積地、阿仁鉱山の中心として発展し最盛期 人口は一万人を超えていたと伝えられます。なお町内には大阪商人や北前船関連の文化財や近代の史跡が多く見られます。(場所はココです)
  • 延慶2(1309)年 金山発見
  • 至徳4(元中4 1387)年 湯口内・向山で銀山発見
  • 寛永14(1637)年 大坂の商人北国屋吉右衛門の手代高岡八右衛門が小沢銅山を発見
  • 寛文10(1670)年 高岡八右衛門 極印沢に小沢銅山発見
  • 元禄14(1701)年 阿仁鉱山は久保田佐竹藩の直営に移行し、銅山奉行が置かれる
  • 享保元(1716)年 銅の産出日本一になる
  • 安永2(1773)年 久保田佐竹藩、平賀源内を招聘して鉱山技術指導受ける
  • 安永3(1774)年 加護山精錬所を建設
  • 天明3(1784)年 天明の大飢饉により鉱山開発、一時中止
  • 明治8(1875)年 工部省鉱山寮の経営に移行
  • 明治12(1879)年 ドイツ人鉱山技師アドルフ・メッケルらが来山
  • 明治15(1882)年 新式精錬所を建設
  • 明治18(1885)年 古河市兵衛に払い下げとなり、古河阿仁鉱山の経営に移行
  • 昭和6ー10(1931−35)年 世界恐慌の為、銅の価格が下がり 一時休山
  • 昭和45(1970)年 生産操業が中止
  • 昭和53(1978)年 阿仁鉱山閉山
旧阿仁鉱山町市街地は阿仁川に沿った低位段丘上に位置し、集落を縦断するよう南北に大覚野街道(阿仁街道)が通っています。(写真左上ー阿仁市街地 写真右上ー「大覚野街道」) でっ、北側が水無坂になっていて(写真左)、坂の側面法面は(からみ)の石垣で補強されています。(写真左下ー゚の石垣) なお段丘上の水無地区には風張城主 松橋氏の菩提寺 福厳寺(写真右下)や明治期の商家と思われる民家が見られます。
(写真左上) 明治期のものと思われる民家
(写真右上) 無縁塔、水無地区と銀山地区の領境に建つ石塔で、藩政期 銀山地区で不心得なことをした者は無縁塔の外に追放されました。
(写真右) 水無神明社
(写真左下) 旧銀山町の中心部
近代、阿仁合駅の周辺には異人館本館(写真右下)、阿仁鉱山事務所、鉱山倉庫、阿仁合駅(明治中期)が建てられ銀山地区の中枢をなしていました。
(写真左上) 阿仁鉱山事務所跡、現北秋田市阿仁庁舎。
(写真右上) 秋田内陸鉄道阿仁合駅、昭和11(1936)年 開業。
(写真左) 「明池山 長福院 観音寺」、久保田佐竹藩が建立した藩の祈願所、本堂に木彫十一面観音大聖本尊、聖歓喜天唐金像、十二支の彫刻御堂四面が安置され、本堂前に「山寺の石燈籠」が建てられています。(写真左下)
(写真右下) 「金山 善勝寺」 、浄土真宗大谷派、境内に小沢銅山を発見したとされる高岡八右衛門の墓碑があります。
(写真左上) 高岡八右衛門の墓碑
(写真右上) 法華寺 日蓮宗寺院、元和元(1615)年 向山金山の山長山王丸孫右衛門が開基。
(写真右) 銀山神明社 元文年間(1736−40年)、向山銀山開発の際に建立。
(写真左下) 「光明山 善導寺」、浄土宗寺院、元和2(1616)年 小渕高田城主の裔 僧 西須により開基。境内には向山銀山の山師 青山家の墓所が建てられ、青銅製の大仏が安置されています。(写真右下)
(写真左上) 青山家の墓所 
(写真右上・左) 「一心山 専念寺」、浄土宗寺院、もともと真木沢鉱山にあったものを元和2(1616)年、現在地に移転。山門の鐘楼門は市指定有形文化財。(写真右上) 境内には三枚鉱山を発見した大阪屋彦兵衛の墓碑があります。(写真左下)
(写真右下) 十歩一御番所跡、藩政期、銀山町の南口に設けられた久保田佐竹藩の御番所跡。銀山町に入る商人はここで十分の一の手数料を番所に払い町に入ったとされます。
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