竹 田 城
兵庫県朝来市(旧和田山町)和田山町竹田
立地・構造
 竹田城は円山川左岸の丘陵上(標高353m 比高250m)に築かれた山城です。城の規模は東西450mm×南北650mほど、城縄張りは山頂ピークに構築された主郭を中心に北側稜線に北二の郭ー北三の郭ー北千畳を、南側稜線に南二の郭ー南千畳を階段状に配した連郭構造で構築されています。規模は主郭が東西25m×南北30m、北二の郭が東西20m×南北60m、北三の郭が東西40m×南北50m、北千畳が東西70m×南北40m、南二の郭が東西20−40m×南北40m、南千畳が東西50m×南北80mほど。比較的 規模の大きい平場に加工されています。山頂部に構築された郭群は高石垣で構築され、塁線の各所に「折れ」「ひずみ」が見られます。また各郭を繋ぐ導線には桝形虎口・多重桝形が多用され、高石垣の使用とともに近世城郭の基本パーツがふんだんに使用されています。大手筋は東麓から北千畳に繋がるルートが想定され、北千畳の東側下に大手虎口が設けられています。また北側
竹田城 現地説明板の図
現地説明板の図(右が北方向)
稜線の突端に観音寺山砦と呼ばれる出丸が設けられています。なお東麓には播磨と但馬を繋ぐ但馬街道が通っており、これを監視・警備する機能があったものと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では15世紀中頃、但馬国守護職 山名氏(宗全の頃か?)が本城此隅山城の支城として、また但馬と播磨・丹波の「境目」を抑えるために築いたとされ、山名氏の被官 太田垣氏が城主に任ぜられていました。太田垣氏は但馬 日下部一族の庶流と伝えられ、山名氏が但馬国守護職になった際、その配下に組み込まれた在地領主と推測されます。太田垣氏が台頭する契機となったのは明徳2(元中8 1391)年に勃発した「明徳の乱」とされ、この際 太田垣氏は足利義満方に加担した山名右衛門督時煕の主力として戦い、また応永2(1399)年に勃発した「応永の乱」でも山名勢の主力となっています。この軍功により太田垣氏は但馬国守護代に任ぜられ、また山名時煕が備後国守護職に補任されると備後守護代に任ぜられ、山名家中の重臣に成長しました。また嘉吉元(1441)年に勃発した「嘉吉の乱」後、山名氏が軍功により播磨国守護職に任ぜられると太田垣氏は播磨国守護代に任ぜられ、この頃 竹田城は築かれ太田垣光景が城主に命ぜられたとされます。「応仁の乱」(応仁元 1467年)後、山名氏の守護領国体制は徐々に衰退し、逆に有力国衆が但馬の実権を握るようになります。そして永正9(1512)年、太田垣輝延は垣屋、八木、田結庄氏(「山名四天王」)と結んで但馬国守護職 山名致豊(むねとよ)に離反し、山名誠豊(のぶとよ)を擁立します。永禄12(1569)年、但馬国守護職 山名右衛門督祐豊(すけとよ)が尼子残党と結んで毛利領へ侵攻すると、毛利は将軍 義昭を介して織田信長に支援を要請し、同年 羽柴秀吉の「第一次但馬侵攻」により竹田城は落城しました。その後、一時 国外に逃れていた祐豊は織田信長と和睦して但馬に復帰し、毛利と対峙しました。しかし天正3(1575)年、太田垣輝延主導で山名祐豊は毛利と同盟を結び、このため羽柴秀吉の「第二次但馬侵攻」が開始され、同5(1577)年 竹田城は羽柴秀長の攻撃を受けてふたたび落城しました。そしてその後、竹田城はふたたび太田垣氏に接収されましたが、同8(1580)年 羽柴秀長勢の攻撃を受けて降伏し、竹田城には秀吉の与力 桑山修理大夫重晴が据えられました。同13(1585)年、畿内に羽柴政権が確立すると、竹田城には龍野から赤松左兵衛佐広秀(斎村政広)が入城し、この際 竹田城は赤松氏の手により近世城郭に改修されたものと推測されます。慶長5(1600)年の「関ヶ原」の際、広秀は当初 西軍に加担して田辺城攻城軍に加わるものの、その後 東軍に転じて鳥取城攻めに参加しました。しかし戦後、家康から切腹を命ぜられ、この際 竹田城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
竹田城 南郭群
メモ
但馬国守護職 山名氏配下の国衆 太田垣氏の「要害」
形態
山城
別名
虎臥城 
遺構
郭(平場)・天守台・櫓台・石垣・虎口・竪堀
場所
場所はココです
駐車場
中腹に専用駐車場あり
訪城日
平成19(2007)年3月28日
竹田城は円山川の左岸、通称 城山に築かれた山城です。(写真左上) でっ、城へは城山の南中腹まで車道が敷設されているため楽に訪城できます。さらに中腹の駐車場から東側斜面に沿って大手口まで車道が設けられています。(写真右上) 大手口北千畳の東側下に位置し、本来であれば東麓の竹田宿からここまで城道があったのでしょう。(写真左) 大手導線はここから東城壁の側面を経て北千畳に繋がっています。(写真左下) でっ、北千畳は高さ5−6mの高石垣で構築されています。(写真右下)
北郭群北千畳ー北三の郭ー北二の郭「一二三段」状に構築されています。(写真左上) でっ、大手口からの導線は北千畳の東側に設けられた桝形虎口から北千畳に繋がっています。(写真右上) 北千畳の規模は東西70m×南北40mほど(写真右)、北三の郭とは高さ4−5mの石垣で区画され(写真左下)、北三の郭に繋がる虎口も桝形構造になっています。(写真右下)
北三の郭の規模は東西40m×南北50mほど、西側の城壁に「折れ」が見られ(写真右上)、また北側の虎口の他に西側中央にも掘り込み式の桝形虎口が設けられています。(写真左) また北二の郭へは「折れ虎口」で繋がっています。(写真左下・右下) でっ、北二の郭の塁線は導線に対して横矢がかかるように張り出されています。
北二の郭(写真左上・右上) 規模は東西20m×南北60mほど、内部は1.5−2mの段差で区画された南北2段に加工され、西側に設けられた虎口で繋がっています。 
主郭(写真右・左下) 規模は東西25m×南北30mほど、周囲に幅10−15mの帯郭が巻かれ、北西側に掘り込み式の虎口が設けられています。(写真右下) でっ、塁線は直線状ではなく、各所に「折れ」が見られます。
主郭の周囲は高さ10mの高石垣で構築され(写真左上)、郭内の中央東端に天守台が構えられています。(写真右上) 石垣は石塁の割面を外側に用いた切り込みハギに近いものですが、隅部は成形した石塁を用いた算木積になっていて、東側の城塁はきれいな弧状になっています。(復元・修復によるものかは判断材料がないため不明) 主郭からの眺望は素晴らしく、眼下に但馬街道竹田宿の町並を一望にできます。(写真左) でっ、主郭から南二の郭への導線は四度 クランクさせる多重桝形になっています。(写真左下・右下)
南郭群(写真左上) 南二の郭・南千畳と繋がる郭群は幾何学的な美しさがあります。 スバラシイ!!!
南二の郭(写真右上) 規模は東西20−40m×南北40mほど、南千畳とは高さ4−5mの石垣で区画され(写真右)、東側側面に設けられたスロープ状の「折れ虎口」で繋がっています。(写真左下) 
南千畳(写真右下) 規模は東西50m×南北80mほど、城内最大の平場になっています。
南千畳の北東端に設けられた桝形虎口。搦手口か?。 花屋敷(西郭)
主郭の西側下に位置し規模は東西40m×南北30mほど、城主の上屋敷が想定されます。
秋田の中世を歩く