少 弐 資 時 の 墓 所
長崎県壱岐市(旧芦辺町)芦辺町瀬戸浦(少弐公園)
 少弐備中権守資時(しょうに すけとき)は鎌倉中期の武将です。少弐氏は藤原秀郷流 武藤氏を祖とし鎌倉御家人 武藤資頼が建久年間(1190-99年)、太宰府の少弐職に任ぜられて九州に下向し、さらに肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護職に補任され、資頼の嫡子 資能(すけよし)の代から少弐氏を称したとされます。資時はこの資能の嫡子 経資(つねすけ)の嫡男として弘長3(1263)年 誕生したと伝えられます。そして資時は文永11(1274)年、元・高麗連合軍が日本に侵攻した「文永の役」では叔父の左衛門尉景資(かげすけ)に従い初陣を果たしたとされます。「文永の役」後、資時は討死にした壱岐国守護代 平景隆に代わり守護代に任ぜられました。弘安4(1281)年、元はふたたび日本に侵攻します。(「弘安の役」) 壱岐に侵攻した元 東路軍は「去年異賊襲来時、七月二日、於壱岐島瀬戸浦令合戦由事、・・・・・」弘安五年(1282)九月九日 肥前守護職 北条時定書状 『龍造寺文書』)と壱岐 瀬戸浦において日本軍と合戦にいたりました。この際、資時は祖父の資能や父の経資、九州の御家人衆(松浦党、彼杵、高木、島津、比志島、龍造寺等)とともに東路軍と対峙しましたが、この合戦で討死にしたと伝えられます。享年 十九。なお墓所から西方800mには少弐資時が拠したと伝えられる船匿城があります。(場所はココです)
少弐資時の墓所 
芦辺町瀬戸浦東端の岬上にあります。昔から「ショウニイサマ」と呼ばれていた石積の塚が少弐資時の墓所とわかったのは明治31(1898)年とされます。
少弐資時の墓所 
少弐資時 顕彰碑 
壱岐神社 
御祭神は「元寇」当時の亀山天皇、後宇多天皇と少弐資時公。昭和3(1928)年から壱岐島民により壱岐神社創建の事業が進められ、昭和19(1944)年 本殿竣工。昭和23(1948)年、三柱の鎮座祭を執行。
壱岐神社 本殿 
復元烽火台 
天智天皇2(663)年の「白村江の戦」で敗北を喫した大和朝廷は戦後、唐・新羅の日本侵攻をおそれ、対馬・壱岐に防人を配し、対馬ー壱岐ー九州を繋ぐ通信手段として烽火台を整備したとされます。
碇石 
瀬戸浦近海で引き揚げられた船の碇石。元軍のものなのか日本軍のものなのかは不明。素材は支那産の花崗岩、長さ2.4m、重さ300kg。
千人塚 
「弘安の役」で元軍に虐殺された壱岐島民の供養塔。壱岐にはこのような千人塚が各地に残されています。
少弐資時公像 
平成9(1997)年、芦辺港フェリーターミナル前に建立されました。
ー 動画 壱岐 芦辺港 ー