「飛鳥板蓋宮」は七世紀中期、皇極天皇の営んだ皇宮と伝えられます。皇極天皇元年一月、舒明天皇の崩御により皇后 宝姫王が即位して皇極天皇となり、同年九月 新宮殿の建設を大臣の蘇我蝦夷に命じます。そして竣工されたのが「飛鳥板蓋宮」と伝えられ、翌2(643)年 皇極天皇は「小墾田宮」の仮宮から新宮殿(「飛鳥板蓋宮」)に移ったと伝えられます。同4(645)年七月、蘇我氏の専横に危機感を抱いた藤原鎌足、中大兄皇子等は「飛鳥板蓋宮」において蘇我入鹿を暗殺します。(「大化の改新」「乙巳の変」) そして皇極天皇は退位し、軽皇子が即位して(孝徳天皇)、あらたに「難波長柄豊碕」に宮を造営されました。白雉5年十月、孝徳天皇が崩御すると、翌年 皇極上皇は「飛鳥板蓋宮」でふたたび即位し(斉明天皇)、「飛鳥板蓋宮」を皇 |

飛鳥板蓋宮 概念図 |