大 官 大 寺 祉
奈良県高市郡明日香村小山
 大官大寺大安寺伽藍縁起并流記資財帳(だいあんじがらんえんぎならびにるきしざいちょう)によると聖徳太子が平群に建立した熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)を初源とし、舒明天皇十一(639)年 百済川のほとりに移転されて百済大寺と改称されました。(『日本書紀』) その後、天武天皇二(674)年、高市大寺(木之本廃寺に比定)として移転改称され、さらに文武天皇の御代(697-707年)に現在地に移転建立されて大官大寺に改称したと伝えられます。そして大官大寺和銅三(710)年、平城京遷都にともない移転されて大安寺と改称されましたが、もとの大寺の建設は継続されていました。しかし もとの大寺は建設途中の和銅四(711)年、火災により焼失しました。(『扶桑略記』) 大官大寺の建設は藤原京の条坊に合わせて計画され、東は東四坊大路、西は東三坊大
路、南は十条大路、北は九条条間路で囲まれた区域に位置していました。伽藍配置は発掘調査から 中門ー金堂ー講堂を南北に並べ、中門から左右に延びた回廊で伽藍を囲い、金堂の南東側に塔を配置した一塔一金堂形態だったことが確認され、回廊内部の規模は東西約145m×南北約200mほど。焼失時の大寺の建設状況は金堂・講堂が完成し、塔は最終工程、中門・回廊は工事途中にあったとものと推測されています。大正3(1914)年、国の史跡に指定。(場所はココです)
大官大寺金堂祉
桁行九間(約45m)、梁間四間(約21m)の大規模な伽藍。金堂の礎石は明治22(1889)年に はじまった橿原神宮建設のため持ち出され、現在 金堂祉は耕作地になっています。
大官大寺塔祉 
五間四方の日本唯一の九重の塔と推測されています。高さは約100m、焼失時には 塔はほぼ完成し、最後の基壇の外装工事が残るのみだったようです。現在は基壇が残るのみ。