亥 山 城
福井県越前大野市日吉町
立地・構造
 亥山城は大野盆地中央部の微高地に築かれた平城ですが、現在 日吉神社の社地になっているため規模・構造ともに不明。現在、西縁に幅10−15mの濠祉が、東縁に高さ2−3mの土塁?が残存しており、この間を主郭の範囲に想定すると主郭の規模は東西70−80mほど、土塁と()で囲まれた方形館と推測されます。(南北規模は遺構が不明瞭のため不明、また複郭構造かも不明)
 築城時期・築城主体ともに不明。『太平記』に暦応二(延元四(1339))年七月五日 「堀口兵部大輔氏政、五百騎ニテ居山ノ城ヨリ出テ、十一箇所ノ城ヲ五日中二攻落シテ、降人千余人ヲ引連レ河合庄ヘ出合ハル」と記され、亥山城は南北朝期までに築かれた越前の南朝勢力の拠点だったとされます。その後、越前の南朝勢力が衰退し、越前国守護職 斯波氏の治政が安定すると大野郡は斯波尾張守高経の五子 民部少輔義種に分知され、義種の被官 二宮氏が亥山城に入り大野郡を支配しました。長禄2(1458)年、越前国守護職 斯波左兵衛佐義敏と守護代の甲斐美濃守常治が対立すると、朝倉孝景は甲斐方に加担して勢力を拡大し、「応仁の乱」応仁元(1467)年)では西軍に加担しましたが、文明3(1471)年 孝景は西軍から東軍に寝返り 越前の平定に乗り出しました。そして同7(1475)年、孝景は唯一支配の及ばない大野郡に侵攻して二宮左近将監、駿河守兄弟の籠る亥山城を攻略し 越前平定を果たしました。その後、大野郡には朝倉一族が「大野郡司」として配され、大永年間(1521−28年)頃 「大野郡司」となった朝倉貞景の次子 右衛門大夫景高が亥山城を拠点としています。そして景高のあとを継いだ式部大輔景鏡(かげあきら)は元亀3(1572)年、朝倉義景の名代として織田勢に包囲された小谷城に出陣するなど、朝倉氏の軍事を統括した重臣でした。天正元(1573)年、小谷城から敗走する朝倉義景を追って織田軍が越前に侵攻すると、景鏡は一乗谷から大野に逃れた義景を攻撃して自害に追い込み、信長に降伏して所領を安堵されました。しかし翌2(1574)年、越前一向一揆が勃発すると景鏡は平泉寺と結んで一向衆制圧に動きましたが、平泉寺で討死にしました。同3(1575)年、織田信長により越前一向一揆が鎮圧されると大野郡に金森長近が封じられ、当初 長近は亥山城に入城しましたが、亀山に新たに大野城を築き移ったため、亥山城は廃城となりました。
歴史・沿革
亥山城 西側の濠祉
メモ
「大野郡司」 朝倉氏の居館
形態
平城
別名
 土橋城・居山城
遺構
郭(平場)・土塁?・濠祉
場所
場所はココです
駐車場
日吉神社の駐車場借用
訪城日
平成21(2009)年6月25日
現在、城址は日吉神社(写真左上)の境内になっているため城の雰囲気はありませんが、西縁に幅10−15mの濠が部分的に残り(写真右上)、また東縁の土塁らしき高台に小池神社が祀られています。(写真左)) 
 
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