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森山館は津軽西海岸、日本海に突き出した半島状の丘陵先端(比高50m)に築かれた平山城で、規模は東西350m×南北180mほど。内部は丘陵上に築かれた本郭・副郭とこれに |

森山館 概念図 |
痩尾根で繋がった断崖上に構築された物見郭からなり、規模は本郭が東西?m×南北150m、副郭が東西30m×南北60m以上、物見郭が幅7−8m×長さ50mほど。(本郭は明確な遺構が見られず規模・構造とも不明瞭) 副郭・物見郭間は痩尾根で繋がり、鞍部は二重堀で遮断されています。このうち副郭側の堀切から副郭に繋がる導線らしきものが見られることから、ここが大手口と推測され、また堀切自体は北から南側に抜ける津軽西街道の峠だったのでは?。物見郭は南北に細長い絶壁の断崖上に築かれた5段の段郭群からなります。同地は津軽西街道に封鎖した丘陵上に築かれており、軍事的な性格をもった城砦と推測されます。
築城時期・築城主体ともに不明。『北海史』に「天文十五年春、出羽国河北郡深浦森山の館主 飛騨守季定、安東氏に叛きしかば安東尋季父子兵を率いて之を討ち、蠣崎季広をして搦手を攻めしむ。季広乃ち津軽の小泊に渡り、森山に着せり。館内水乏しけれども敵を欺かんがため水桶を担いで出入せしむ。季広遥に射て担夫を殺し、館遂に堕ちたり」と記されており、森山館は戦国中期頃までに存在し、天文年間(1532−55年) 檜山城主 安東尋季の被官 森山飛騨守季定が在城していたことが知られます。当時、津軽西海岸から蝦夷地は檜山安東氏の影響下に置かれ、森山飛騨守季定はこの地を守備した檜山安東氏の被官と推測されます。また蠣崎若狭守季広は後に松前藩祖となる松前志摩守慶広の父で、この当時
季広は檜山安東氏配下の「松前守護」でした。そして天文15(1546)年、森山季定が安東氏に叛いたため、森山館は安東尋季、蠣崎季広の攻撃を受けて落城しています。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、檜山安東氏と津軽氏の間で領地の境界線が設定されると、津軽西海岸は津軽領となります。そして津軽為信は森山館に小野茶右衛門を配して檜山安東氏、佐竹氏に対する押さえとしましたが、二代 越中守信牧の代に茶右衛門に専横な振る舞いがあったとして、信牧は「大間越奉行」 笹森勘解由に命じてこれを討伐したと伝えられます。その後の森山館の消息は不明、ほどなく廃城になったものと思われます。なお幕末期、沿岸警備のための津軽藩の狼煙台が置かれたとされます。 |
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檜山安東氏勢力下の監視砦 |
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平山城(崖縁城) |
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茶右衛門館 |
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郭(平場)・土塁・虎口・堀 |
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場所はココです |
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登り口に駐車スペースあり |
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平成19(2007)年6月23日 |
平成23(2011)年4月12日 |
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森山館は日本海に突き出した丘陵上に築かれた平山(崖縁)城で、突端部に築かれた物見郭と尾根鞍部を挟んだ丘陵上に構築された本郭部からなり(写真左)、津軽西街道を封鎖する要衝に位置します。でっ、城へは南麓の登口から散策路が設けられ(写真左下)、物見砦まで行くことができます。でっ、登山道は相当 崩落していますが、道形は明確になっており(写真中下)、しばらく登ると進行方向右側に二重堀の1条目が見えてきます。(写真右下) |
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二重堀の1条目の堀切は本郭と稜線鞍部間の緩斜面を断ち切ったもので、規模は幅10m×深さ6−7mほど。(写真左上) 本来、木戸を兼ねたものと思われ、北麓からの山道はこの堀底に繋がり(写真右上))、また堀切から副郭へは明確な導線が見られます。(写真右) でっ、副郭の規模は東西30m×南北60m以上?ほど、西縁に低めの土塁が築かれているようですが、藪が酷く不明瞭。(写真左下) 本郭とは3−4mの段で仕切られています。本郭は全体が藪、笹竹、萱に覆われ、規模・構造等は不明。(写真右下) |
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本郭・物見郭間は稜線鞍部を利用した自然の堀で断ち切られ(写真左上)、導線はこの鞍部を経て物見郭に繋がっています。(写真右上) |
物見郭(写真左)
規模は幅7−8m×長さ50mほど、内部は2−3mの段で区画された5段の段郭群に加工されています。最大の郭は突端に築かれた平場で規模は15m×5−6mほど(写真左下)、眺望は素晴らしく、特に岩崎方向はメチャクチャよく見えます。(写真右下) |
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