一 乗 谷
福井県福井市城戸の内
立地・構造
 一乗谷は福井平野に注ぎ込む足羽川の支流 一乗谷川に沿った東西400−500m×南北2.5kmの小谷に構築された中世の計画都市です。小谷は北端のみが足羽川に開いた袋小路状の地形で、最も狭まった部分に上城戸(南端)、下城戸(北端)と呼ばれる木戸が築かれ城外と繋がっていました。城主居館「朝倉氏館」は中央東側の山麓に築かれ、背後(東方)の丘陵上に「要害」一乗谷城)が築かれています。「朝倉氏館」の周囲には近親者(一族)の屋敷が集中的に配置され、谷内の平地に家臣屋敷、寺社寺屋敷、商工業者の町屋が計画的に配置されていました。さらに城下町の整備が進むと「城戸の外」まで城下は広がり、身分、機能を意識した城下町に変容する過程にあったものと思われます。なお下城戸北側の足羽川沿いに「三国湊」に繋がる河湊が設けられ、また美濃街道に繋がり、南端の上城戸「鹿股峠」を越えて越前府中に繋がる街道に接していました。

 戦国初期、一乗谷を拠点に越前国守護職に登りつめた朝倉氏は『越州軍記』によると開化天
一乗谷 現地リーフレットの所収図
現地パンフレットの案内図
皇、『朝倉始末記』では孝徳天皇の末裔とされ、平安期 但馬国朝倉に拠したことから朝倉氏を称したと伝えられます。その後、朝倉氏は但馬国の在地勢力に成長し、南北朝期の広景の代に足利一族の斯波尾張守高経の被官となり、この頃 越前国守護職に補任された高経に従って越前に下向したものと思われます。そして広景は越前で軍功をあげ、坂井郡黒丸城を拠点に次第に坂井郡、足羽郡を侵食し、室町中期の下野守家景の代に越前の有力国人に成長したものと思われます。そして家景のあとを継いだ弾正左衛門尉孝景(英林)は越前国守護職 斯波氏と守護代 甲斐氏の内紛を利用して守護勢力と甲斐氏勢力を衰退させて越前一国の掌握に成功しました。孝景は応仁元(1467)年の「応仁の乱」の際、当初 西軍(山名宗全)に加担しましたが、文明3(1471)年 細川勝元に誘われて東軍に寝返り、この頃 越前国守護職に補任されたと推測されます。そして孝景は一乗谷に支配拠点を移すと(孝景以前からの拠点説あり)、分国法『朝倉敏景十七ヶ条』を制定するなど戦国大名として越前の領国化を図りました。その後、朝倉氏は孫右衛門尉氏景ー弾正左衛門尉貞景ー弾正左衛門尉孝景の代に旧主 斯波氏の訴訟(越前国守護職復権)に勝利し、室町幕府から越前の統治を認可され、近隣諸国に出兵するなど隣国の守護職や国人勢力に対して軍事的優位性、政治的影響力を与えました。永禄11(1568)年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は次第に義昭と対立するようになり、義昭は朝倉義景に御教書を送るようになります。また信長も将軍の命令として義景に上洛を命じましたが、義景が拒否したため同13(1570)年4月、織田、徳川連合軍は越前に侵攻しました。しかし連合軍は天筒山城、金ヶ崎城を攻め落としましたが、信長の妹婿 小谷城主 浅井長政が朝倉方に内応して連合軍の背後を脅かしたため、織田、徳川勢は京への撤退を余儀なくされました。そして元亀元(1570)年6月、朝倉、浅井連合軍は態勢を整えた織田、徳川連合軍と姉川で対峙しましたが惨敗を喫しました。(「姉川の戦」) 同年9月、信長の摂津出兵の隙をついて義景は自ら織田領近江坂本に出陣して比叡山に立て籠もり、織田と対峙しましたが、勅命により義景は信長と和睦しました。同2(1571)年8月、義景は浅井勢とともに織田領の兵站基地 横山城を攻撃しましたが敗退、同3(1572)年7月 小谷城が織田軍に包囲されると朝倉勢はふたたび浅井支援に駆け付けました。同年10月、甲斐の武田信玄が上洛の途につき、織田、徳川の属城を次々に攻め落としましたが、義景は織田領に攻め込むことなく一乗谷に隠退します。同4(1573)年4月、信玄が陣中で死去すると、信長は織田全軍を朝倉、浅井討伐に向けることが可能となり、天正元(1573)年8月8日 近江に侵攻しました。義景もまた小谷城支援のため自ら出陣しましたが、8月12日 大嶽城(小谷城「要害」)が、13日 丁野山城が陥落すると越前に潰走することとなります。8月15日、義景は一乗谷に帰還しましたが、留守を守る将兵の大半が逃亡したため一乗谷を守備することができず、16日 戌山城主 朝倉式部大輔景鏡(かげあきら)の勧めに従って大野郡賢松寺に逃れました。しかし、20日 信長に内応した景鏡に攻められ義景は自害に追い込まれ、一乗谷は18日 攻め込んだ織田勢に放火され灰燼に帰したと伝えられます。朝倉氏滅亡後、信長から越前国守護代に任じられた朝倉旧臣の桂田九郎兵衛尉長俊(前波吉継)は一乗谷に館を構えて越前の行政、軍事を統治しましたが、同2(1574)年 朝倉旧臣 富田長繁等の国人衆、一向一揆勢力の攻撃を受けて討死にしました。同3(1575)年、信長は越前の一向一揆勢力を制圧すると越前には柴田勝家が据えましたが、勝家は一乗谷を再興せず、水上、陸上交通の要衝 北の庄に拠点を構えたため、一乗谷は再興されることなく衰退したとされます。
歴史・沿革
一乗谷 朝倉氏館の唐門
メモ
越前朝倉氏が構築した「惣構」の計画都市
形態
「惣構」都市
 別名
 ・・・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・濠(堀)・土塁・櫓台・虎口 門祉・桝形・石積・庭園祉・建物礎石・旧道・復元武家屋敷・復元町屋・寺屋敷・上城戸・下城戸
場所
場所はココです
駐車場
各所に駐車スペースあり
訪城日
平成15(2003)年10月19日 平成21(2009)年6月25日
ー 上  城  戸 ・ 下  城  戸 −
一乗谷の北端と南端の谷の最も狭まった部分に構築された大土塁、濠からなる木戸口で、上城戸・下城戸に挟まれた南北2.5kmの細長い谷間に朝倉氏の城下町が築かれていました。(場所はここです 上城戸下城戸
上城戸は南側の大手口を守備した木戸口で、規模は下幅13m×高さ5m×長さ100mほど、城戸は一乗谷川に隣接して設けられていました。(写真左上・右上) (写真左ー下城戸
下城戸は一乗谷の北端に築かれた木戸口で、規模は下幅18m×高さ5m×長さ50mほど、西端に設けられた城戸口は巨岩を利用した桝形構造だったようです。(写真左上・右上) 外側の濠は幅10mほど。
ー 朝  倉  氏  館 ー
 朝倉氏館一乗谷の中央東縁の山裾に築かれた方形館で、越前国守護職 朝倉氏の「守護所」になります。規模は東西120m×南北100mほど、東側を除く三方に幅8−10m×深さ3−4mの濠と高さ2−5mの土塁が築かれています。土塁は内部を石積で補強され、北西隅、南西隅に隅櫓が構えられたため分厚くなっています。虎口は北、西、南側に開き西虎口が正門(大手虎口)と想定され、現在は後年 豊臣秀吉が寄進したと伝えられる唐門が建てられています。内部の発掘調査から十七棟の建物祉が確認され、館内最大規模の常御殿(東西21m×南北14m)を中心に、中央東部に主殿、会所、数寄屋、庭園といった政務、接待スペースが配置され、その北側に持仏堂、台所、御清所、湯殿等の水廻り、生活空間が設けられていました。建物は柱間寸法や方位のズレから2期に分けて造営されたと推測され、現在は礎石を残して平面的に
朝倉氏館 概念図
理解しやすいように表示されています。館の東側山腹に斜面を切り崩して幾つかの平場が築かれ、中の御殿、諏訪館、南陽寺といった関連施設が設けられていました。また館の北ー西側の平坦地に馬場や朝倉一族の屋敷が構えられていたようです。なお朝倉氏館、湯殿、諏訪館、南陽寺祉に残存し復元整備された庭園は必見です。そういえば管理人が初めて一乗谷を訪れた昭和57(1982)年頃、朝倉氏館の北西端は車道で破壊されていたのですが、よくここまで整備されたものです。
朝倉氏館は一乗城山の西麓に位置し、規模は東西120m×南北100mほど、明確な方形館になっています。(写真左上ー西側からの遠景) でっ、東側を除く三方に幅8−10m×深さ3−4mの濠と高さ2−5mの土塁が築かれ、外部と遮断されています。(写真右上ー北側の濠 写真左ー西側の濠 写真左下ー北側の土塁 写真右下ー西側の土塁) 虎口は東側を除く三方に開き、西門が正門(大手門)に想定されます。
(写真左上) 正門 (写真右上) 北門
(写真右) 南西隅櫓、館の北西隅、南西隅には櫓台が構築されていました。規模は北西隅櫓に比べて南西隅櫓の方が幾分か大きいようです。
館内部は建物礎石を残して平面的にわかるように復元されています。越前国主の「守護所」にしてはいくぶんか小さいような気もしますが ・・・・・、でも常御殿だけでも90坪あります。建物の配置は常御殿、主殿、会所、数寄屋といった政務、接待スペースを集約し、その北側に台所、御清所、湯殿等の水廻り、生活空間が設けられていました。(写真左下・右下)
(写真左上) 主殿
(写真右上) 常御殿
(写真左) 湯殿
(写真左下) 台所 
(写真右下) 朝倉義景の墓所、現在の墓所は江戸初期、福井松平藩が建立したものとされ、この墓所の他に義景が自害に追い込まれた大野にも墓所はあります。
朝倉氏館庭園(写真左上) 数寄屋、会所に隣接した山裾に構築された庭園。滝石組を中心とした池泉庭園で、東側斜面に鑓水と思われる導水路が敷設されています。(写真右上) 
湯殿庭園(写真右) 朝倉氏館を見下ろす山腹に築かれた庭園。鶴岩・亀岩を思わせる中島、出島を配した池泉庭園で、一乗谷で最も古い庭園と推測されています。
ー 中 の 御 殿 ー
中の御殿(写真左上・右上) 朝倉氏館から堀を挟んだ南側の山腹に構築された屋敷地。朝倉義景の母 高徳院の居館があったと伝わります。規模は東西40m×南北70mほど、内部からは礎石建物祉、庭園祉が確認されています。(写真左) 敷地は山腹を切り崩して削平され、東側(背後)は堀を入れ込んで高さ5mの大土塁に加工し(写真左上)、南側に設けられた虎口は石積の土塁で区画されています。(写真右下)
諏訪館(写真左上・右上) 中の御殿と同様、山腹に構築された平場で、朝倉義景の愛妾 「小少将」の館と伝えられます。庭園は上下2段からなる回遊式林泉庭園、上段は滝石組や湧水石組がなされ、下段は護岸石組された池が掘られたもので一乗谷で最大規模の庭園遺構です。
南陽寺祉(写真右) 朝倉氏館の北東側山腹に建立された寺社で、朝倉氏景の室 天心清祐大姉の創建、後に朝倉貞景が再興したと伝えられます。永禄11(1568)年、朝倉義景が一乗谷で庇護していた足利義昭を招いて宴を催したとされ、現在は庭園の一部が残っています。
ー 一 乗 谷 城 下 ー
 上城戸下城戸に挟まれた谷間には南北2.5kmにわたって、朝倉氏館を中心とした整然と町割りされた計画都市が建設されていました。町割りは大きくは一乗谷川東岸に朝倉氏館、朝倉一族の屋敷、重臣の屋敷が、西岸にその他の家臣屋敷(外様の在地国衆)、町屋(商家・工房)、寺社が配置されていました。また西岸に一乗谷川に沿って一乗谷を縦貫する幅8mの南北道路が敷設され、平井地区では南北道路に面して間口30mの屋敷地が構えられ、赤淵地区では間口6−10mの町屋が配置されていました。また赤淵地区では南北道路に直交して東西 平井地区概念図 クリックすると拡大します
平井地区概念図
赤淵地区模式図 クリックすると拡大します
赤淵地区概念図
道路が敷設され、家臣屋敷、寺屋敷が配置されていました。武家屋敷は間口30mを基本として石積土塁(築地塀)で区画され、虎口は薬医門、棟門を基本とし、建物は奥側に寄って建てられ、手前(門側)は空地になっています。内部には日常生活を過ごす殿舎が1ー2棟と蔵、使用人の住居、井戸が配置され、中には庭園を持つ屋敷も見られます。寺社、寺屋敷は主に南北道路から離れた山裾に集中的に配置されていますが、規模は様々で中には墓地を含むものもあります。町屋は道路に対して間口六間×奥行十二間前後を基本とした「短冊地割」で、回りは排水溝で区画され、内部に井戸と厠が備えられていました。
赤淵地区は一乗谷川西岸の北側に位置する町屋、寺屋敷からなる区域です。(写真左上) 一乗谷川に沿った南北の幹線道路(幅員8m)沿いに間口6−10m×奥行12−15mの町屋が連なり(写真右上)、町屋の裏側(西側山裾)に、幹線道路とT字に交わった東西道路(幅員5−8m)が敷設され(写真左)、寺院、武家屋敷が配置されていました。町屋は間口の狭い空間ですが、厠や井戸を個別に持ち、排水溝で区画されていました。(写真左下)
サイゴー寺(西光寺 写真右下) 東西道路沿いにある寺社祉で、規模は東西40m×南北30mほど。南と北側は石積の土塁(築地塀?)で区画され、南側に間口3mの門が構えられていました。内部からは11.5m四方の建物二棟が確認されています。
朝倉景鏡屋敷(写真左上) 下城戸に近い一乗谷川の西岸に位置し、規模は東西50m×南北100mほど、土塁と堀の一部が残存しています。(写真右上ー北側の土塁祉 写真右ー南側の堀祉) 景鏡(かげあきら)「大野郡司」をつとめた朝倉家のNO2でしたが、織田信長に内応して朝倉義景を自害に追い込んでいます。
安養寺祉(写真左下) 上城戸の外部東新町にある朝倉敏景が文明5(1473)年に創建した寺院祉、現在は建物礎石、門祉、石積等が残っています。安養寺では天文16(1547)年頃、一乗谷に滞在していた清原宣賢が「大学」「中庸」の講義をおこなったとされ、また安養寺の北側に朝倉義景が庇護した足利義昭の御所があったようです。(写真右下)
朝倉氏館から一乗谷川を挟んだ西側の平井地区には、「河合安芸守」「山崎長門守」「斉藤兵部大輔」「鰐淵将監」など重臣クラスの屋敷が集中していました。(写真左上) 屋敷地は当時の幹線道路(南北道路 幅員5−5.5m)沿いの西側に配置され(写真右上)、幹線道路に直交する土塁(築地塀)を山裾まで延ばして区画され(写真左)、間口の基準は約30mほど。(写真左下) 幹線道路は意識的にクランクさせている箇所もあり軍事面を考慮したと推測されます。また家臣屋敷の向かい側の一乗谷川沿いに小規模に区画された武家屋敷、町屋が集中的に配置され、そのうちの一軒(一区画)について屋敷、門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠が復元されています。(写真右下)
復元された下級武家屋敷、屋敷、門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠が復元されています。 復元町屋
重臣屋敷地の向かい側には間口6−8mの町屋が集中的に配置されている一画があり、十軒の町屋が復元されています。
秋田の中世を歩く