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赤淵地区は一乗谷川西岸の北側に位置する町屋、寺屋敷からなる区域です。(写真左上) 一乗谷川に沿った南北の幹線道路(幅員8m)沿いに間口6−10m×奥行12−15mの町屋が連なり(写真右上)、町屋の裏側(西側山裾)に、幹線道路とT字に交わった東西道路(幅員5−8m)が敷設され(写真左)、寺院、武家屋敷が配置されていました。町屋は間口の狭い空間ですが、厠や井戸を個別に持ち、排水溝で区画されていました。(写真左下) |
サイゴー寺(西光寺 写真右下) 東西道路沿いにある寺社祉で、規模は東西40m×南北30mほど。南と北側は石積の土塁(築地塀?)で区画され、南側に間口3mの門が構えられていました。内部からは11.5m四方の建物二棟が確認されています。 |
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朝倉景鏡屋敷(写真左上) 下城戸に近い一乗谷川の西岸に位置し、規模は東西50m×南北100mほど、土塁と堀の一部が残存しています。(写真右上ー北側の土塁祉 写真右ー南側の堀祉)
景鏡は「大野郡司」をつとめた朝倉家のNO2でしたが、織田信長に内応して朝倉義景を自害に追い込んでいます。 |
安養寺祉(写真左下) 上城戸の外部東新町にある朝倉敏景が文明5(1473)年に創建した寺院祉、現在は建物礎石、門祉、石積等が残っています。安養寺では天文16(1547)年頃、一乗谷に滞在していた清原宣賢が「大学」「中庸」の講義をおこなったとされ、また安養寺の北側に朝倉義景が庇護した足利義昭の御所があったようです。(写真右下) |
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朝倉氏館から一乗谷川を挟んだ西側の平井地区には、「河合安芸守」「山崎長門守」「斉藤兵部大輔」「鰐淵将監」など重臣クラスの屋敷が集中していました。(写真左上) 屋敷地は当時の幹線道路(南北道路 幅員5−5.5m)沿いの西側に配置され(写真右上)、幹線道路に直交する土塁(築地塀)を山裾まで延ばして区画され(写真左)、間口の基準は約30mほど。(写真左下) 幹線道路は意識的にクランクさせている箇所もあり軍事面を考慮したと推測されます。また家臣屋敷の向かい側の一乗谷川沿いに小規模に区画された武家屋敷、町屋が集中的に配置され、そのうちの一軒(一区画)について屋敷、門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠が復元されています。(写真右下) |
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復元された下級武家屋敷、屋敷、門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠が復元されています。 |
復元町屋
重臣屋敷地の向かい側には間口6−8mの町屋が集中的に配置されている一画があり、十軒の町屋が復元されています。 |