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福知山城は福知山盆地の中央部、西から東方向に突き出した丘陵先端(比高20m)に築かれた平山城です。城の規模は東西500m×南北550mほど、東西に延びた丘陵を南北堀で区画した本丸・二の丸・三の丸(伯耆丸)の連郭構造になっています。城の三方(北ー東ー南)は段丘崖を |
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利用した断崖で画され、さらに土師川から引き入れた水を利用した濠が北ー東側に巡らされ、丘陵の北・南側下に家臣屋敷地(外郭)が構えられていました。現在、本丸周辺は公園として整備され、天守・石垣等が復元されていますが、周辺の郭群は市街化により消滅しています。
築城時期・築城主体ともに不明。もともと小笠原長清の末裔 塩見大膳勝頼が築いた砦と伝えられます。その後、天正年間(1573−90年)初期頃 丹波を平定した明智光秀が城代として重臣の明智左馬助秀満を置き、改修したのが福知山城の初源とされます。天正10(1582)年、「山崎の戦」で明智氏が滅亡すると、福知山城には羽柴秀勝ー杉原伯耆守家次ー小野木縫殿助重勝が順次 城主として配されました。しかし慶長5(1600)年の「関ヶ原」で小野木重勝は西軍に加担して丹後国田辺城攻めに参陣します。そして本戦で西軍が敗北すると重勝は福知山城に籠りましたが、後に開城し 家康の命により自刃しました。同年、福知山には有馬玄蕃頭豊氏が入封し、福知山城を現在 見られる近世城郭に改修し、城下を整備したとされます。元和6(1620)年、豊氏が筑後国久留米に転封すると、福知山は一時 幕府領として伏見奉行の管轄下におかれましたが、元和7(1621)年 岡部内膳正長盛が、寛永元(1624)年 稲葉淡路守紀通が、慶安2(1649)年 松平(深溝)主殿頭忠房が、寛文9(1669)年 朽木伊予守稙昌が入封し、朽木氏が「明治維新」まで在城しました。 |
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近世福知山藩の藩庁 |
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近世平山城 |
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横山城・臥龍城・八幡城 |
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郭(平場)・復元(?)天守・石垣・井戸・虎口・濠祉 |
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場所はココです |
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市営駐車場(有料) |
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平成19(2007)年3月27日 |
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福知山城は福知山市街地東部の小丘陵に築かれた近世平山城です。(写真左上) 現在、福知山城公園になっている本丸は城域の東端に位置し、西に二の丸ー三の丸(伯耆丸)があったようです。本丸の東側下には土師川から引いた濠祉が用水路になって残っています。(写真右上) 本丸の東ー南側の石垣は高さ7−8mほど、「野面積」で構築され、ところどころ「折れ」も見られます。(写真左・左下) 周囲の帯郭は幅5−10mほど、本丸の北ー東ー南側をカバーし、東側に本丸への導線が設けられています。(写真右下) |
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(写真左上・右上) 模擬天守、昭和61(1986)年に再建された、模擬(復元か?)天守。 |
(写真右) 豊磐井、本丸内にある深さ50mの湛水井戸。 |
(写真左下) 転用石、福知山城の石垣には自然石の他に五輪塔・宝夾印塔・墓石・石仏等が使われていたようです。 |
(写真右下) 本丸の東虎口 |
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