町 館
秋田県能代市(旧二ツ井町)二ツ井町荷上場
立地・構造
 町館は米代川の中流域、米代川と支流の藤琴川が合流する藤琴川右岸の丘陵上(標高87m 比高70m)に築かれた山城です。規模は推定 東西150m×南北500mほど、城縄張りは南北に細長い頂部を加工した主郭を中心に北から北郭ー主郭ー南郭ー南出丸を配したシンプルな連郭構造で構築され、各郭間は堀で分断されています。規模は主郭が東西30−40m×南北130−140m、北郭が東西20m×南北30m、南郭が東西20×南北30mほど。大手筋は南麓からのルートが想定されます。

 築城時期・築城主体ともに不明。菅江真澄の『しげき山本』「荷上場の梅林のしりなる山に柵ありて、額田甲斐守という主住す」と記されています。また黒甜瑣語(こくてんさご)に延亨年間(1744−48年)、梅林寺で「羽州扇田ノ住 浅利勘兵衛則章 死する年十八歳 干時応仁戌子九月二十日」と記された木棺が堀り出されたことから、応仁の頃 この地は比内浅利氏の勢力下にあったものと思われ、額田甲斐守は浅利氏の被官と推測されています。(額田は糠野の間違いか?) 時期不詳ですが、額田甲斐守は高岩山密乗寺と対立し同寺で誘殺されたと伝えられ、この際 町館は落城したものと思われます。その後、町館檜山安東氏の支配下に置かれ安東政季が在城しましたが、長享2(1488)年 政季は長木大和守の謀反により生害したと伝えられます。
歴史・沿革
 『八戸湊文書』『下国伊駒安陪姓の家譜』に次の一文が記されています。文明二(1470)年正月二十九日、政季津軽に攻め入り、藤崎の館を攻めて引き退く。しかるのち、長木大和守謀反を起こし、長亨二(1488)年三月十日、河北糠野城にて政季生害す。森山飛騨守御頸を討ち奉るなり。泰巌京公大禅定門と号す。」 この一文は檜山安東氏の初代 政季のことを記したものですが、政季について記載された史料はまことに少なく、時系列にすると以下のようになります。
  • 亨徳3(1454)年 下北から武田信広とともに蝦夷地に逃れ、花沢館主 蠣崎季繁のもとに身を寄せる
  • 康正2(1456)年 秋田湊城主 安東尭季の誘いを受けて小鹿島に移る
  • 文明2(1470)年 津軽に侵攻し藤崎城を攻略するものの退却
  • 長亨2(1488)年 河北糠野城で生害
以上が、史料に見られる政季の動向ですが、不明点が多く なかなか点と点が結びつかないため、当時の歴史背景から推測して整理したいと思います。政季の出自は、南部氏により津軽を追われた十三安藤氏嫡流 盛季の弟 潮潟四郎道季の孫と伝えられ、1420−30年頃 出生したと推測されます。そして亨徳2(1453)年、津軽回復を目指した盛季の孫 安藤義季が南部氏との(いくさ)で自害し安藤氏嫡流が断絶すると、南部氏は蝦夷地に広く分布する安藤一族を掌握するため政季に下国家を再興させ、下北に所領を宛がいました。(この当時は生駒政季を称したらしい) しかし翌3(1454)年、政季は南部氏に反旗を翻し、下北蠣崎を領していた武田信広(松前氏の祖)と蝦夷地に逃れ、花沢館主 蠣崎季繁の庇護を受けます。この間、政季は道南の「渡り党」を掌握すると「上国守護」花沢館)に蠣崎季繁を、「下国守護」茂別館)に弟の式部大輔家政を、「松前守護」(松前大館)に下国山城守定季(安藤義季の弟)を任じました。そして康正2(1456)年、蝦夷地を盤石にした政季は同族の秋田湊城主 安東(上国)尭季の誘いを受けて小鹿島(男鹿島)に移ります。この当時、上国家は仙北郡を支配下に置いた南部氏に圧迫され、政季を支援するだけの余力はなかったと思われますが、津軽から蝦夷地まで一定の勢力を保持した政季を河北郡(米代川下流域)に配置することで、鹿角、比内から米代川沿いに侵攻する南部勢力(浅利氏、葛西氏)に対する防御ラインにしたものと思われます。政季が河北郡に入封した当初、河北郡には葛西秀清という支配者がいましたが、この人物については史料がなく不明。応永18(1411)年、南部守行が出羽に侵攻し狩場野(刈和野)で安東某と対峙した際、登米城主 葛西伯耆守持信が南部軍に加勢していることから(『南部叢書』『聞老遺事』)、陸奥葛西氏の一族が入封した可能性が高いようです。そして政季と葛西氏の抗争は、応仁年間(1467−68)頃まで続き政季、忠季父子の勝利で終結したと推測されます。そして河北郡を平定した政季の目は旧領津軽に向いていたと思われますが、ここでまた障壁が現れます。当時、米代川上ー中流域を支配していた比内浅利氏です。浅利氏の当時の当主は不明ですが、南部氏と同盟を結んでいた強国で鎌倉期に地頭職として入部以来 綿々と続いた名家です。紀州熊野に伝わる『米良文書』によると比内徳子郷の浅利氏が嘉吉元(1441)年、那智大社に願文を奉じていることから、当時 浅利氏は比内の独鈷に拠点を置いていたと推測されます。後世の史料では中興の祖 浅利則頼(1504−50)の代に独鈷城を拠点に比内を支配したとされていますが ・・・・・。ここでもう一つ浅利氏に関する史料があります。『黒甜瑣語』「秋田郡荷上場村に梅林寺と云、古刹あり。延亨の頃、井戸を掘らんとせし時、地下より鐡物打の大(ひつぎ)を掘出しけり、・・・・・ 蓋の下に羽州扇田ノ住 浅利勘兵衛則章 死する年十八歳 干時応仁戌子九月二十日と板に・・・・・」と記され、応仁2(1468)年 浅利氏の御曹司(?)が死去し浅利領西端の古刹に弔われたとともに、当時の浅利氏の支配圏が旧二ツ井町荷上場(町館)周辺まで及んでいたことがわかります。ここからは管理人の推測になります。政季が葛西氏を滅ぼした時、隣国には強国南部氏をバックにした浅利氏が存在し、政季の津軽侵入を阻んでいました。このため政季は浅利氏の分裂を図り、浅利庶子家(後の則頼の家系)を支援して浅利嫡流に対してクーデターを起させたのではないかと推測されます。このクーデターは応仁年間前後に勃発し、このため浅利嫡流と思われる則章は町館まで逃れるものの、ここで殺害(毒殺?)されたのではないかと推測されます。このため浅利氏を乗っ取った則頼の家系は、前浅利氏の存在を消去するため史料の改ざん、焚書を行い、則頼を浅利氏中興の祖としたのでしょう。またこの時に、前述した額田甲斐守と高岩山密乗寺の抗争が勃発し、浅利氏の重臣 額田氏は没落し町館は落城したものと思われます。また密乗寺の背後に政季がいたのかもしれません。そして津軽への道筋を確保した政季は文明2(1470)年、「津軽侵攻」に踏み切ります。しかし政季の率いる安東軍は藤崎城で同族で南部氏の支配下にあった安藤義景と浪岡城主 北畠顕義の抵抗を受けて撤退を余儀なくされました。史料には現れませんが、その後も政季は「津軽侵攻」を繰り返し、嫡男の忠季を本拠 檜山に残して自身は町館に拠したものと思われます。政季の度重なる「津軽侵攻」に掛かる軍役は膨大なものと思われ、このため政季は湊安東氏と対立を深めたのでしょう。またそれ以上に政季の行動に危機感をつのらせたのは比内浅利氏だったと思われます。政季に謀反を起こしたのは家臣の長木大和守とされていますが、苗字から推測すると比内出身だったのではないでしょうか。家臣というより なんらかの事情により比内浅利氏から檜山安東氏に派遣されていた客将だったのかもしれません。当然、城内に入り込むとなると政季の信頼を得ねばならず、相当 長い期間にわたり家中に入り込んでいたのだと思われます。そして大和守は長享2(1488)年8月10日(旧暦9月15日)、不意をついて城内に乗り込み、政季を自害に追い込んだものと思われます。また大和守の背後に比内浅利氏の思惑があったものと思われます。その後の長木大和守の消息は不明、政季の墓所も伝わっていません。政季の死後、安東氏と浅利氏の抗争は伝わっていませんが小規模な局地戦はあったのかもしれません。そして政季の死から70年経った永禄5(1562)年、阿仁嘉成氏を支配下に置いた檜山城主 安東愛季は比内に侵攻して浅利則祐を自害に追い込み比内領を併呑しました。
町館 北側尾根の堀切
メモ
比内浅利氏の「境目の城」
別名
館平城・糠野城
形態
山城
遺構
郭(平場)・土塁・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成20(2008)年5月6日
町館は米代川中流域の右岸、荷上場地区背後の丘陵上に築かれた山城です。(写真左上ー北側からの遠景 写真右上ー東側からの遠景 写真左ー南西側からの遠景) でっ、往時 この地は米代川と藤琴川が合流し、館の東側は藤琴川の氾濫原だったと推測されます。でっ、管理人は南西麓からアプローチし南端の郭と思われる平場に辿り着きました。(写真左下) でっ、南側稜線の上段(麓から見える鉄塔位置)と南出丸間は竪堀をともなった堀で分断され(写真右下)、規模は幅5−6m×南出丸側の深さは7−8mほど。
(写真左上) 南出丸南側の竪堀
南出丸(写真右上) 規模は7−8m四方ほど、大手筋に想定される南側尾根を監視する前衛陣地と推測されます。また南郭間は幅30mの巨大な堀で分断されています。(写真右)
南郭(写真左下) 規模は東西20×南北30mほど。南側の堀との高低差は7−8mほど、腰郭が1段 敷設されています。また北側の主郭間は幅6−7m×深さ2mの浅い堀で分断されています(写真右下)
主郭(写真左上) 規模は東西30−40m×南北130−140mほど、中央に郭を南北に分割した低めの仕切り土塁が築かれています。(写真右上) また北側に北郭と分断した堀が穿たれ(写真左)、規模は幅6−7m×深さ2mほど。北縁に土塁が築かれ 堀から3−4m下にある北郭を見下ろす「武者隠し」と思われます。
北郭(写真左下) 規模は東西20m×南北30mほど、北側稜線は7−8m切り落とした豪快な堀で処理されています。(写真右下)
主郭からは藤琴川沿いの谷底平野を見下ろすことができます。(写真右) でっ、町館の北東2.6kmに僧兵を擁して町館と対峙した高岩山があります。
 
秋田の中世を歩く