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藤崎城は津軽平野の中央部、平川右岸の微高地に築かれた平城らしいです。規模は推定 東西250m×南北800mほど。内部は堀で区画された三郭(東郭ー主郭ー西郭)からなっていたようです。現在、城址は藤崎市街地に包括され遺構は完全に消滅していますが、南東端に部分的に土塁が残存しています。土塁の規模は下幅7−8m×高さ2−3mほど、幅に比較して高さは低く、本来はもっと高かったと思われます。全体的に規模は大きく、恒常的な居住空間をともなった館城と推測され、また十三湖から岩木川を利用した河川交通の要地として船溜が想定されます。 |
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築城時期は不明。通説では康平5(1063)年の「前九年の役」の際、源頼義、義家父子に攻め滅ぼされた陸奥の俘囚長 安倍貞任の遺児 高星丸が津軽に逃れ、その子の堯恒により藤崎城は寛治6(1092)年頃、築かれたとされます。その後、堯恒の子孫は安藤氏を称し藤崎城を拠点に津軽に勢力を広げ、建久6(1195)年 安藤堯季は鎌倉幕府から「蝦夷管領」に任じられています。そして寛喜年間(1229−32年)頃、安藤氏は十三湊に支配拠点を移しましたが、その後も一族(庶子家の「上国家」)が藤崎城に居住したとされます。正中2(1325)年、執権 北条高時が「蝦夷管領」職を安藤季長から従兄弟の季久に取替えたことを発端に季長(「下国家」 十三湊)と季久(「上国家」 藤崎城)が対峙する「蝦夷大乱」が勃発します。そして乱は幕府を巻き込む大乱に発展しましたが、嘉暦3(1328)年 両家の和睦が成立しました。しかし南北朝期、「上国家」は南朝方に加担し、かたや「下国家」が北朝方に加担したため 「上国家」は没落したと推測され、以後 藤崎城に「下国家」の一族のものが据えられたものと思われます。室町中期以降、十三安藤氏が南部氏の攻撃を受けて津軽から追い落とされると、藤崎城は南部氏に接収されたと思われますが、その後の藤崎城の消息は不明。戦国末期までに廃城になったものと思われます。 |