岐 阜 城
岐阜県岐阜市金華山
立地・構造
 岐阜城は長良川左岸に屹立した独立丘陵 金華山(標高328m 比高300m)に築かれた山城です。城の規模は東西100m×南北300mほど、城縄張りはピークに構築された主郭を中心に南西方向に展開され、痩尾根に小規模な二の郭ー三の郭(現在のロープウエイ山頂駅周辺)が敷設され、シンプルな連郭構造になっています。城は急峻な断崖上に位置する要害ですが、山頂部・稜線尾根の平坦面はどれも狭小 現地説明板の図
現地説明板の図
で、大量の兵の収容には適しておらず、有事の際の臨時的な「詰城」、あるいは監視砦として利用されたものと推測されます。なお大手筋は西麓の居館(「根小屋」)からのルートが想定され、導線は三の郭に繋がっていたと思われます。三の郭から主郭までは痩尾根で繋がっていますが、途中 堀切ー一の門ー上格子門ー馬場ー二の郭でチェックされるように設定されています。現在、城址は公園として整備され、主郭部分に模擬天守が建てられています。

 岐阜城は建仁元(1201)年、鎌倉御家人 二階堂民部大夫行政(鎌倉幕府の政所執事)が金華山に砦を築いたことを初源とします。その後、行政の娘婿 佐藤朝光、伊賀宗光、稲葉光資の支配下に置かれたとされ、鎌倉末期の二階堂行藤の代に廃城になったとされます。そして室町中期、美濃国守護代 斉藤越前守利永が改修して拠しましたが、大永5(1525)年 斎藤氏の被官 長井長弘と長井新左衛門尉が斎藤氏に謀反を起こし稲葉山城を攻略して支配下に置きました。天文2(1533)年、新左衛門尉が死去すると稲葉山城には養子の長井新九郎規秀(後の斎藤道三)が入城し、同7(1538)年 守護代 斉藤大和守利良(としなが)が死去すると規秀が斉藤家の家督を継承して稲葉山城を大改修しました。同10(1541)年頃、美濃国守護職 土岐美濃守頼芸(よりあき)との対立が顕在化すると道三は頼芸を追放しましたが、この為 尾張の織田弾正忠信秀、 越前一乗谷の越前国守護職 朝倉孝景の攻撃を受けることになります。そして同16(1547)年、稲葉山城は織田勢に包囲されましたが、道三は「加納口の戦」で織田勢を壊滅寸前まで追い込みました。このため道三は朝倉、織田勢との対峙を不利と悟ると織田と和睦し、娘の帰蝶を信秀の嫡子 上総介信長に輿入れさせました。同23(1554)年、道三は嫡子の左京大夫義龍に家督を譲り鷺山に隠居しましたが、その後 道三は義龍と対立するようになり、弘治2(1556)年 「長良川の戦」で敗北を喫して討死にしました。永禄7(1564)年、義龍のあとを継いだ嫡子の治部大輔龍興の代に稲葉山城は竹中半兵衛重治、安藤日向守守就に一時的に占拠されます。同10(1567)年、美濃攻略を狙っていた織田信長は稲葉山城攻略に成功すると、拠点を小牧山城から稲葉山城に移して岐阜城と改めました。同11(1568)年、足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は天正4(1576)年、琵琶湖畔に新たな支配拠点として安土城の築城を開始すると岐阜城に嫡子の出羽介信忠を城主に据えました。同10(1582)年の「本能寺の変」により信長、信忠が横死し、「山崎の戦」後 執り行われた「清州会議」で美濃は信長の三男 神戸信孝の領地になり岐阜城に信孝が入城しました。そして翌11(1583)年、信孝は北の庄城主 柴田権六勝家と結んで羽柴秀吉と対峙しましたが、賤ヶ岳の戦」で勝家が敗北すると自害しました。その後、岐阜城は池田三左衛門輝政ー羽柴丹波守秀勝(信長の四男)ー織田秀信(信忠の嫡子)が城主をつとめ、慶長5(1600)年の「関ヶ原」で左近衛権少将秀信が西軍に加担したため岐阜城は東軍の福島左衛門尉正則、池田輝政等に攻められて落城。翌6(1601)年、徳川家康の命により廃城となりました。
歴史・沿革
岐阜城 模擬天守
メモ
「美濃を制する者は天下を制す」 「天下布武」の城
形態
山城
別名
稲葉山城 
遺構
郭(平場)・模擬天守・虎口・石垣・堀
場所
場所はココです
駐車場
岐阜公園駐車場(有料)
訪城日
平成18(2006)年6月1日
岐阜城は長良川の南岸、濃尾平野を望む金華山に築かれた山城です。(写真左上・右上) 城はとんでもない急峻な山頂に位置し、幾つか登山ルートがあるようですが、管理人は文明の利器 ロープウエイでショートカットしました。でっ、ロープウエイから降り主郭方向にしばらく進むと堀切が現れます。堀切自体は小規模なものですが岩盤を砕き切ったものです。(写真左) このあと稜線に一の門(写真左下ー模擬冠木門)、上格子門(写真右下)が構えられています。
馬場祉(写真左上)
二の郭(写真右上) 高さ10mの切岸上を2段に削平され、狭小な平場です。上段に台所櫓があったと伝えら、また二の丸門に模擬冠木門が建てられています。(写真右)
主郭(写真左下・右下) 金華山山頂は岩盤剥き出しの狭い空間ですが、岩盤を巧みに利用して模擬天守が建てられています。なお信長時代の天守は、慶長6(1601)年 加納城の二の丸御三階櫓に転用されました。
主郭から濃尾平野方向 主郭から鷺山城方向
岐阜城西麓の千畳敷は信長時代の居館地と伝えられます。宣教師 ルイス・フロイスの『日本史』宮殿は非常に高い山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの裁断されない石の壁がそれを取り囲んでいます。・・・・・」と記された宮殿が信長の居館とされ、内部は発掘調査で確認された遺構が復元整備されています。(発掘調査は継続中)
(写真左上・右上)2度クランクさせた導線 (写真左・左下)石積で補強、区画された平場 (写真右下)石積で構築された水路
秋田の中世を歩く