浅 水 城
青森県三戸郡五戸町浅水
立地・構造
 浅水城は浅水川中流域の左岸、西から東方向に延びた丘陵先端(60m)に築かれた山城で、先端部分を削平した3郭と北ー東ー南側斜面に敷設された郭(腰郭・帯郭)群からなるようです。規模は推定 東西150m×南北100mほど。現在、最も広いと思われる先端部分の郭に八幡神社が祀られ、相当 改変を受けているようです。八幡神社の西側にも郭らしき平場が見られますが、遺構等は不明瞭ではっきりしません。堀切等もあると思うのですが未確認。浅水城の南方に浅水川を挟んで浅水館、工藤屋敷と呼
ばれる城館があり、同時期に機能していたと思われます。

 築城時期は不明。永正年間(1504−21年)末期、本三戸城主 南部右馬允安信は五戸方面を統治するため三弟の遠江守長義を浅水に配し、この頃 浅水城は長義により築かれたと推測されています。そして長義の家系は本三戸城の南側に屋敷を構えていたことから「南殿」と呼ばれ、北、東氏とともに南部家中の一門衆でした。そして長義の嫡子 康義は永禄10(1567)年、檜山城主 安東愛季が鹿角に侵攻した際、南部軍の主力として鹿角に出陣しています。元亀元(1570)年、田子(南部)信直を養嗣子としていた南部大膳大夫晴政に嫡子 晴継が誕生すると、天正4(1576)年 信直は養嗣子の座を辞して田子城に戻りました。しかし晴政が信直暗殺を画策したことから信直は剣吉城主 北左衛門佐信愛に匿われ、このため剣吉城は晴政勢の攻撃を受けましたが、この際 康義は信直を支持して晴政勢と対峙しています。天正10(1582)年、晴政、晴継が相次いで死去すると南部家の家督は康義と北信愛が支持した信直が継承しましたが、このため九戸左近将監政実との確執を残すこととなります。同19(1591)年、「九戸の乱」が勃発すると浅水城は九戸方に与した櫛引城主 櫛引清長の攻撃を受けましたがこれを撃退。しかし撤退する櫛引勢を追撃した南弾正少弼盛義、康政兄弟は法師岡で櫛引勢の迎撃を受けて討死し、南家の家督は盛義の末弟 直義が継ぎました。その後、南部藩二代藩主 信濃守利直の四男 利康が南家の名跡を継承しましたが、寛永8(1631)年 利康が死去すると、ほどなくして浅水城は廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
浅水城 南東側からの遠景
メモ
三戸南部氏の庶子家 南氏の館城
形態
山城
別名
・・・・・・・・・ 
遺構
郭(平場)
場所
場所はココです
駐車場
浅水活性化センターの駐車場借用
訪城日
平成20(2008)年10月1日
浅水城は浅水地区北側の西から東方向に延びた丘陵先端に築かれた山城です。(写真左上・右上) 浅水地区は旧奥州街道が通る要衝地だったことから、浅水城には街道筋を扼する機能があったものと思われます。(写真左) 浅水城の南西麓には大永3(1523)年、南部長義が開基したと伝えられる南氏の菩提寺 寶福寺があります。(写真左下) でっ、城へは南東麓の八幡神社の鳥居から遊歩道が整備されています。(写真右下)
城址は大きくは3郭からなるようですが、はっきりしません。東端の平場が最も広く八幡神社が祀られ(写真左上)、ここが主郭と思われますが、相当 改変されているようです。神社の背後に7−8m四方の小郭があり、物見だったと思われます。(写真右上) でっ、この小郭から西側は細長い尾根がなだらかに続いていて(写真右)、管理人は尾根筋をしばらく進みましたが、笹藪が酷く退却を余儀なくされました。また北ー東ー南側斜面は急斜面になっていますが、幾つか郭らしき平場も見られます。
浅水城の南方には浅水城と同時期に使用されたと推測される浅水館、工藤屋敷が築かれています。(写真左上) 両城は浅水城とともに旧奥州街道を挟む形で構築されていることから、浅水城の支砦として街道を監視する機能があったものと思われます。
工藤屋敷(写真右上) 北東方向に延びた丘陵先端(比高10−15m)に築かれた単郭の城砦。規模は東西20m×南北60−70mほど、丘陵基部を幅10−15m×深さ5−6mの堀で分断されています。なお工藤屋敷は南部長義が入部以前の領主 工藤氏の館城と伝えられます。(写真左)
浅水館(写真左上) 北方向に延びた丘陵先端(比高10−15m)に位置し、丘陵基部を堀切(写真右上)で分断して城域としています。内部は東西180m×南北150mほどあるようです。(私有地のようだったので登っていません)
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