飯 詰 城
青森県五所川原市飯詰
立地・構造

飯詰城 概念図
 飯詰城は西津軽平野の北東部、津軽丘陵から西方向に張り出した稜線末端(比高30m)に築かれた丘城で、北麓を流れる糠塚川を自然の濠としています。城の規模は東西400m×南北150mほど、城縄張りは東西に細長い稜線を加工した連郭構造で構築され、特に外部に面した北側斜面を段郭群で切り刻んで防御ラインとしています。規模は主郭が東西40m×南北30m、西郭が東西40m×南北40m、東郭が東西60m×15−20mほど、主郭・西郭間は細長い通路状の郭で処理され、堀で分断されています。大手筋は西麓からのルートが想定されます。全体的に段を防衛基盤とした古い形態の城館で、基本的に在地領主の日常居館を兼ねた館城として築かれたものと思われます。

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では南北朝期、後醍醐天皇の近臣 藤原藤房が津軽に下向し、藤房の子 景房が康永3(興国5)(1344)年頃、南朝勢力の拠点として築いたのが飯詰城の初源と伝えられます。その後、景房の家系は朝日氏を称し、文中年間(1372−74年)頃 十三安藤氏の招聘により浪岡に下った北畠顕成の支配下に入り、以後 朝日氏は浪岡北畠氏の与力として行動をともにしました。しかし天正6(1578)年、浪岡北畠氏が「津軽一統」をかかげて挙兵した大浦城大浦(津軽)為信に滅ぼされると、朝日左衛門尉行安は大浦勢に徹底抗戦しましたが、同16(1588)年 飯詰城は大浦勢の猛攻を受けて陥落、行安は自害したと伝えられます。
歴史・沿革
飯詰城 主郭に建つ城址碑
メモ
浪岡北畠氏の与力 朝日氏の館城
別名
高楯城
形態
丘城
遺構
郭(平場)・土塁・堀
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成19(2007)年6月22日 平成23(2011)年4月13日
飯詰城は五所川原市街地の東方、飯詰地区背後(東側)の小高い丘に築かれた丘城です。(写真左上ー北東側からの遠景) 城の北麓に糠塚川が西流し自然の濠だったのでしょう。でっ、城へは飯詰地区に城址標柱が建てられ(写真右上)、ここから西麓の妙龍寺に進みます。(写真左) さらに妙龍寺の脇から農道を進むと南側の長大な帯郭に辿り着きます。(写真左下) 帯郭の規模は幅10−15mほど、南側は鞍部を利用した堀状地形になっています。(写真右下)
西郭(写真左上) 規模は東西40m×南北40mほど、内部に城郭風の建築物(公民館)が建てられています。でっ、主郭に繋がる東側稜線は幅10−15mの通路状の郭に加工され(写真右上)、北側斜面は不規則な4−5段の帯郭群に(写真右)、南側は主郭までカバーする長大な帯郭で処理され(写真左下)、東側の稜線続きは浅い堀で切られています。(写真右下) 堀の規模は幅4−5m×深さ3−4mほど、南側は帯郭に繋がり、北側は竪堀で処理されています。
(写真左上) 北側の竪堀へ
主郭(写真右上) 規模は東西40m×南北30mほど、東端に城址碑が建てられています。でっ、内部は一郭単体というわけではなく、東ー北ー西ー南側に郭群を敷設させ、このうち西側は4段の段郭群に、下段はケッコウ広い平場に(写真左・左下)、さらに中段は主郭の北側をカバーする帯郭になっています。(写真右下)
(写真左上) 主郭東端に建つ城址碑
(写真右上・右) 北側の帯郭群
主郭の東側稜線は3−4m切り落として東西に細長い郭に加工され、中央部に なにやら東西堀が穿たれています。(写真左下・右下)
東郭(写真左上)
規模は東西60m×15−20mほど、北側斜面は2−3mの段差で仕切られた5−6段の帯郭群で処理され(写真右上・左)、南側は東西堀を挟んで東西に細長い平場に加工されています。(写真左下) 規模は東西50m×南北10mほど。
(写真右下) 北側斜面の竪堀
秋田の中世を歩く