十 三 湊 安 藤 氏 遺 跡
青森県五所川原市(旧市浦村)十三・相内
立地・構造
 津軽十三湊は十三湖と日本海に流れ込む前潟(旧流路)に挟まれた南北に細長い半島状地形に築かれた中世の港湾都市です。町の規模は東西500m×南北1300mほど、内部は大きくは東西方向に構築された大土塁と堀(濠)によって南・北の2ブロックに分割され、土塁の北側に安藤氏居館、家臣・給人層の屋敷地が、南側に町屋や工房、寺屋敷が設けられ、ヒエラルヒーの中で町は構築されていたと思われます。このうち安藤氏居館は北ブロックの南縁東寄りに構えられ、規模は100−120m四方ほど、()と土塁で囲まれた方形館と推測されます。そして居館の西側に南北に奔る基軸道路が敷設され、居館の北ー西側をカバーするように家臣の屋敷地が設けられていました。また南北の基軸道路は南ブロックの中央を縦断し、道路 十三湊安藤氏遺跡 現地説明板の図
現地パンフレットの図
に沿って間口の狭い短冊状の町屋が設けられていました。なお十三湊の港湾施設は北ブロックの前潟沿いに設けられ、南西側の水戸口で日本海に繋がっていたようです。

 「前九年の役」(1051−62年)で滅ぼされた蝦夷の俘囚長 安倍氏の一族 高星丸は乱後、津軽に遁れて藤崎に土着します。その後、高星丸の家系は安藤氏を称して13世紀初期頃、十三湊に拠点を移し「津軽六郡」を統治下に置きました。安藤氏は独立性が強く、奥州藤原氏全盛期においても独自性が担保され、また鎌倉幕府から承久4(1222)年、「蝦夷管領」に任じられ この頃から水軍を駆使して蝦夷地、日本海交易で莫大な経済権益を得ていたとされます。しかし正中2(1325)年、執権 北条高時が「蝦夷管領職」を安藤季長から従弟の季久(宗季)に代えたことで「蝦夷大乱」(安藤氏の内訌)が勃発し、乱は幕府を巻き込む大乱に発展しました。(この乱により安藤氏は上国氏、下国氏に分裂したとする説あり) そして乱は幕府の介入により嘉暦3(1328)年、和睦が成立し 季久が安藤氏の嫡流(下国家)となり、季久の代に安藤氏は十三湊に拠点を移したとされます。(あくまで一説です) 元弘3(1333)年、鎌倉幕府が瓦解し幕府残党が津軽に遁れ来ると、季久のあとを継いだ高季(師季)、家季兄弟は「建武政権」に加担して北条残党攻めに参陣します。その後、足利尊氏が「建武政権」に対して叛旗を翻すと高季はこれに呼応して南朝方の根城攻めに加担し、建武4(延元2)(1338)年 「奥州総奉行」 石塔義房から「津軽総奉行」に任ぜられました。そして高季のあとは法季ー盛季ー康季と続き、下国安藤氏は日本海交易を経済基盤とする陸奥の一大勢力に成長しました。しかし永享4(1432)年、盛季、康季父子は姻戚関係にあった三戸南部遠江守義政の攻撃を受けて蝦夷地に駆逐されました。(十三湊安藤氏を攻撃したのは根城南部氏説が有力です) その後、室町幕府の仲裁により盛季、康季父子は南部と和睦して津軽十三湊に戻り、永享8(1436)年 後花園天皇の勅命により若狭羽賀寺を再興しています。しかし嘉吉3(1443)年、康季はふたたび南部の攻撃を受けて蝦夷地に追い落とされました。そして康季、義季父子は津軽奪還をめざして数度にわたって津軽に侵攻しましたが、その都度 南部に拒まれ康季は文安3(1446)年に死去し、義季は享徳2(1453)年 津軽「大浦郷」で自害し下国家嫡流は断絶しました。なお十三湊十三湊安藤氏が蝦夷地に退去後、南部氏に使用されることなく次第に衰退したものと思われます。
歴史・沿革
福島城 内郭の模擬城門
メモ
十三湊安藤氏の計画都市
形態
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別名
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遺構
郭(平場)・土塁・堀(濠)・模擬城門・町屋祉・井戸祉
場所
場所はココです
駐車場
各所に駐車スペースあり
訪城日
平成16(2004)年4月24日 平成19(2007)年6月22日 令和2(2020)年5月11日
航海の守護神として祀られた浜の明神は、前潟が日本海に繋がる水戸口の高所に位置し、水戸口を監視する番所的機能があったものと思われます。(写真左上・右上) でっ、往時 十三湊に繋がっていた旧流路(前潟)は現在、北から前潟ー後潟ー明神沼と呼ばれ河沼になっていて、現前潟の十三湊側に安藤水軍の港湾施設があったのでしょう。(写真右ー明神沼 写真左下ー後潟 写真右下ー前潟) 安藤水軍は蝦夷地から日本海沿岸まで広く制海権を握り、安藤氏は経済権益を得ていたのでしょう。
 
(写真左上) 十三湖、岩木川をはじめ複数の河川が流入する汽水湖。周囲は約30km、水深は最大3mほど。現在はヤマトシジミの産地になっています。
南ブロックを南北に縦貫する道路が中世の中軸街路を踏襲したもので、十三湊の都市構造の基本となっていたようです。(写真右上) 道幅は推定6m以上、この街路に沿って両側は短冊状の奥行きのある屋敷地に加工されていました。(写真左下・右下)
安藤氏館の土塁
安藤氏館は旧十三小学校校地周辺にあったようですが、現在 遺構等は見られず、わずかに南側に南・北ブロックを仕切ったと思われる土塁と堀祉が残るのみ。(写真左上ー館祉 写真右上ー土塁 写真右ー堀祉) 居館の規模は推定 100−120m四方ほど、堀と土塁で囲まれた方形館と推測されます。また土塁は砂と黒土を版築状に固めたもので、下幅6−7m×高さ2.5−3mほど、西側の延長線上にも土塁の残痕と思われる土盛が見られます。(写真左下)
(写真右下) 十三の民謡 砂山の碑
安藤氏館の土塁
古舘遺跡(写真左上・右上) 磯松地区東側の丘陵上にあります。古くから安藤氏の居館祉と伝えられていましたが、現在は平安末期(10−11世紀)頃の環濠を持つ「高地防御性集落」と推測されています。
ー 山 王 坊 遺 跡 ー
 十三湖の北岸、山王坊川の沢筋に設けられた宗教施設。発掘調査から14世紀から15世紀にかけての建物礎石、基壇が確認され、十三湊安藤氏の庇護のもとにあった神仏習合の宗教施設と推測されています。また周辺からは南北朝ー室町前期の五輪塔や宝夾印塔、板碑が出土しており「十三千坊」の中心地だったとされます。なお同地に『十三往来』に記された阿吽寺祉や南部氏に焼き打ちされたとの伝承があります。(場所はココです)
山王坊遺跡へは国道339号沿いにメチャクチャ目立つ鳥居が建てられ(写真左上ー山王造京風二重鳥居)、ここから道なりに進むとじきに辿り着きます。(写真右上) でっ、平坦地から南北に一列に並ぶ拝殿ー渡廊ー舞台(舞殿)ー中門ー本殿祉の建物礎石が確認され、本殿祉を除く建物祉が見学可能なように整備されています。(写真左ー拝殿祉 写真左下・右下ー舞殿祉・渡殿祉) でっ、この神社祉の北延長上の丘陵上に「奥ノ院」があったようですが、こちらは藪茫々・・・・・。
 本殿祉 日吉神社
ー 福 島 城 ー
 福島城は十三湖の北岸、湖に接した小高い丘陵上(比高10−15m)に築かれた巨大な城郭です。規模は推定 東西1300m×南北1250mほど、内部は北西寄りに構築された内郭外郭が囲う変則的な輪郭構造で築かれています。内郭の規模は東西210m×南北180mほど、周囲を土塁と濠で囲った典型的な方形郭と推測され、土塁の規模は下幅5−6m×高さ1−2m、濠は幅5−6mほど。現在、北側に模擬城門が建てられています。発掘調査により内郭の南東部の一画から東西70m×南北50mの板塀で区画された屋敷祉が出土し、内部から五棟の掘立柱建物祉が確認されています。また外郭は沢と段丘崖で区画された広大な平場で東側に土塁と堀が残存しています。土塁の規模は下幅10−15m×高さ3−4m、堀の規模は幅10−15mほど、堀は十三湖の水を引き入れた水濠だったようです。また外郭の東側中央に外郭門が構えられていましたが、この部分の
現地説明板の推定復元図
塁線は門に対して横矢がかかるようにクランクさせられています。福島城の築城時期・築城主体はともに不明、内部から平安末期(10世紀末ー11世紀)の土師器が出土しており、築城当初は「高地防御性集落」として築かれたと推測され、南北朝ー室町初期に安藤氏が新たに内郭を構築したものと思われます。なお『十三湊新城記』「大日本国奥州十三湊新城者、花園帝御宇正和年中(1312-17年)安倍貞季公所築之城廓也」と記された十三湊新城福島城に比定する説があるようです。(場所はココです)
福島城は十三湖北岸のノッペリとした低丘陵に築かれた平(丘)城で(写真左上ー西側からの遠景)、内部は内郭・外郭の二重構造になっています。このうち内郭は東西210m×南北180mほど、古代城柵の政庁域を彷彿とさせる方形郭、周囲は幅5−6mの濠と下幅6−7m×高さ1−2mの土塁で囲まれ、北側に模擬城門が建てられています。(写真右上ー内部 写真左ー北側の濠 写真左下ー北側の土塁 写真右下ー模擬城門) なお内部の南東部から南北朝ー室町期の屋敷祉が確認されているようですが・・・・・・、藪茫々々。
福島城 外郭東土塁 福島城 外郭東土塁
福島城外郭部分は1km四方以上と広大で、このうち東縁の土塁・堀が残存しています。土塁の規模は下幅10−15m(天幅3−4m)×高さ3−4m(写真左上・右下)、濠は幅10−15mほど、深く切り込んだ沢を利用したもので、往時 十三湖から水を引き込んだ水濠だったようです。(写真右) でっ、中央部に外郭門が構えられ外部と繋がっていました。(写真左下) 門の間口は幅5mほど、柵列で区画されていたようです。でっ、門の南側に径1.5mの井戸祉が残っています。(写真右下)
福島城 外郭の東堀
福島城 外郭東門
ー 唐 川 城 ー
唐川城(写真左上) 十三湖を見下ろす独立丘陵(標高166m 比高120m)に築かれた山城で、安藤氏の「詰城」に想定されています。嘉吉3(1443)年、南部氏に攻められた安藤盛季は唐川城に籠もり抵抗しましたが、その後 柴崎城に逃れ、蝦夷地に落ちのびていきました。唐川城に登るには東側を通る林道から入るのが最短距離のようですが、あまりに気温(本日27℃)が高く 突入を断念しました。(場所はココです)
秋田の中世を歩く