郡 上 八 幡 城
岐阜県郡上市(旧八幡町)八幡町柳町
立地・構造
 郡上八幡城は長良川の支流 吉田川右岸の南西方向に張り出した稜線先端(標高350m 比高110m)に築かれた山城です。城の規模は東西100m×南北300mほど、城縄張りは南北に延びた稜線を加工した連郭構造で構築され、北側稜線を掘り切って城域を独立させています。本丸は城域の南端に位置し規模は東西50m×南北80mほど、周囲は総石垣で構築され、現在 内部に模擬天守、模擬櫓が建設されて 郡上八幡城 現地説明板の図
現地案内板の図
います。北側稜線は未訪のため規模・構造等は不詳。なお城山の西麓に「根小屋」(藩庁・藩主殿舎)が置かれていましたが、これは近世に設けられたもので、築城当初の中世 八幡山城は山頂の要害部のみだったと思われます。また近世、城下町の整備が施され、吉田川と駄良川に沿った逆T字状の城下町プランで構築され、吉田川の北岸に「家臣・家中屋敷」が、南岸には「町屋」が配され明確なヒエラルヒーにより城下の整備が施されたものと思われます。

 天文9(1540)年、越前一乗谷の朝倉氏の「美濃侵攻」にさらされた篠脇城(とう)下野守常慶(つねよし)は、翌10(1541)年 篠脇城を廃して赤谷山城に拠点を移しました。そして天文18(1549)年、常慶の嫡子 常堯は内ヶ島氏から娘を娶り、永禄元(1558)年頃 東家の家督を継承しました。しかしこの頃から東家中で東庶子家の遠藤新兵衛胤縁、六郎左衛門盛数兄弟の発言力が強大化します。このため常堯と遠藤兄弟との対立が顕在化し、翌2(1559)年 常堯は赤谷山城で胤縁を暗殺しました。そして兄 胤縁を暗殺された盛数は赤谷山城攻略に動き 常慶、常堯父子を追放して赤谷山城に入城しましたが、その後 対岸に新たに郡上八幡城を築いて移り住みました。同4(1561)年、盛数は斉藤治部大輔龍興に従って稲葉山城で織田勢と対峙しましたが陣中の井ノ口で討死し、遠藤家の家督は斉藤家の重臣 長井隼人正道利後見のもと嫡子の但馬守慶隆が継ぎました。そして同7(1564)年、八幡城は慶隆の従弟 遠藤大隅守胤俊(木越城主)に奪われましたが、翌8(1565)年 長井道利の支援を受けた慶隆の攻撃を受けたため胤俊は和睦を申し出 慶隆が八幡城に復帰しました。同10(1567)年、織田信長の猛攻を受けて稲葉山城が陥落し 美濃斎藤氏が滅亡すると慶隆は織田の支配下に組み込まれます。そして慶隆は元亀元(1570)年の「姉川の戦」、翌2(1571)年の「比叡山焼討」、天正3(1575)年の「長篠の戦」「越前一向一揆討伐」、同10(1582)年の「甲斐武田討伐」に参陣して織田の軍役を担いました。しかし同年6月、信長が「本能寺」で横死し、「山崎の戦」で明智光秀が羽柴秀吉に敗れると美濃衆は秀吉の傘下に組み込まれました。この際、慶隆は信長の三男 神戸信孝に従っていましたが、同11(1583)年の賤ヶ嶽の戦」が秀吉の勝利で終結すると 慶隆は秀吉に降伏し、その後 慶隆は同12(1584)年の「小牧長久手の戦」、同13(1585)年の「紀州討伐」「飛騨侵攻」、同15(1587)年の「九州征伐」に参陣しました。しかし同16(1588)年、慶隆は秀吉に反抗したとの容疑により郡上の所領を没収され、代わって郡上に稲葉右京亮貞通が入封しました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」の際、貞通は当初 西軍に加担しましたが、のち東軍に内応して軍功をあげ、戦後 豊後国臼杵に転封となり、代わって郡上にふたたび遠藤慶隆が入封しました。そして郡上遠藤藩は但馬守慶利ー備前守常友ー右衛門佐常春ー常久と続きます。しかし元禄6(1693)年、常久が嗣子なく夭折したため郡上遠藤藩は改易となりました。その後、郡上には元禄5(1692)年 徳川譜代の井上中務少輔正任が、元禄10(1697)年 金森出雲守頼時が出羽国上山から入封しました。しかし宝暦4(1754)年から続く「郡上一揆」により金森氏は改易となり、代わって郡上に丹後国宮津から青山大膳亮幸道が入封し、青山氏が「明治維新」まで在城しました。
歴史・沿革
郡上八幡城 本丸の模擬天守
メモ
中世 ー 奥美濃の有力国衆 東氏の庶子家 遠藤氏の館城
近世 ー 郡上遠藤、井上、金森、青山藩の藩庁
形態
近世山城
別名
積翠城・郡城 
遺構
郭(平場)・模擬天守・模擬櫓・石垣・虎口城門
場所
場所はココです
駐車場
郡上八幡城駐車場あり
訪城日
平成18(2006)年5月31日
郡上八幡城は郡上市街地を望む八幡山に築かれた山城で、現在は公園整備されています。(写真左上) 麓を流れる吉田川は中世 八幡山城の外濠として取り立てられ、近世 八幡城下を「家中屋敷」「町屋」を区画した遮断ラインだったようです。(写真右上) でっ、現在 山頂(本丸)まで車道が敷設されており楽に登ることができます。本丸は思ったより高い石垣で構築され(写真左)、南西隅に模擬隅櫓が、南側中央に模擬城門、土塀が復元されています。(写真左下・右下)

模擬天守(写真左上・右) 昭和8(1933)年、大垣城を参考に復元された模擬木造天守です。この模擬天守を含む本丸、桜の丸、松の丸の石垣がほぼ完全な形で残存しています。
天守からは川向いの城下町(写真左下)や、八幡城以前の東氏の「要害」 赤谷山城が一望できます。(写真右下)
(写真左) 郡上八幡旧庁舎、昭和11(1936)年に建設された洋風建築の庁舎。平成6(1994)年まで町役場として利用され、現在 総合観光所になっています。ケッコウモダンな建物です。
 
秋田の中世を歩く