五 稜 郭
北海道函館市五稜郭町
立地・構造
 五稜郭は函館湾に面した大野平野中央南部の平野部に築かれた「西洋式近代堡塁」です。五稜郭はその名の通り、五隅に稜堡を構えた星形の五角形をし、規模は東西500m×南北450mほど、五本の塁線はそれぞれ一辺300mほどあります。周囲には幅25−30m×深さ5−6mの濠が巡らされ、南西側の大手口には半月堡と呼ばれる馬出塁が構えられ、正面を防御する構造になっています。本郭は幅25−30m×高さ7−8mの分厚い大土塁で囲まれ、北ー北東ー南西側塁線の中央部に同一規格の木戸口が設けられています。そして木戸口のある大土塁の前面には幅6−7mの濠と低めの土塁が構えられ、木戸口の防御を堅固なものとし、また木戸の内側に見隠塁(蔀土塁)と呼ばれる石垣防塁が構えられています。五隅に設けら
現地説明板の図
現地説明板の図
れた稜堡(台場)は最大幅70mほど、内部からは大砲を運ぶための坂道や弾薬庫祉が確認されています。五稜郭内部には「箱館奉行所」の本庁舎や付属施設が設けられていましたが、居住施設は奉行の役宅のみ内部に設けられ、給人の役宅は北濠を挟んだ北側に設けられていました。大手筋は南西側から 一の橋⇒半月堡⇒二の橋に繋がるルート、搦手は北側の裏門橋がそのルートと想定され、これ以外に計5ヶ所の城外に繋がる橋が設けられていました。各所に見られる石垣は加工した石塁を積んだもので、塁線の下部、木戸口周辺、見隠塁等に重点的に使用されています。また「武者返し」と呼ばれる特殊な刎ね出し石垣が馬出塁・大土塁に使用されており、五稜郭の特徴になっています。五稜郭は本来、行政・政務施設として構築したもので、これにムリに軍事色の濃い台場を敷設したため防御に不安を抱え、西洋では時代遅れとなった旧式堡塁の形態を顕在化させたものとなっています。

 安政元(1854)年3月、「日米和親条約」「神奈川条約」)を結んだ徳川幕府は翌2(1855)年からの箱館開港を目指し、また蝦夷地の統治・警備・治安維持、諸外国との交渉等にあたるため箱館奉行を派遣し、当初は松前藩の「箱館奉行所」庁舎を使用しました。しかし「箱館奉行所」が外人居留地から丸見えだったほか、防御に弱いという弱点があったため、箱館奉行 竹内下野守保徳は同元(1854)年12月、箱館警備についての上申書を提出し、本庁舎と台場の建設を幕府に献策しました。しかし財政難にあった幕府はすぐには動けず、同3(1856)年11月にいたって亀田役所土塁と弁天岬台場の建設着工を決定します。そして洋学者の武田斐三郎成章を「箱館奉行所」諸術調所教授に任命して五稜郭の設計・監督を命じ、同4(1857)年に建設工事に着手、元治元(1864)年5月に五稜郭は竣工しました。内部には文久2(1862)年、建設に着手された「箱館奉行所」が元治元(1864)年6月に完成し、慶応4(1868)年まで「箱館奉行所」は蝦夷地の行政機関として機能しました。同3(1867)年10月、徳川慶喜の「大政奉還」により徳川幕府は瓦解し、翌4(1868)年4月 清水谷公考が明治政府の「箱館裁判所総督」に任命されて「箱館奉行所」を接収し、五稜郭には明治政府の「箱館府」が置かれました。しかし同年10月、榎本武揚率いる旧幕府軍が蝦夷地(茅部郡森町鷲ノ木)に上陸すると「箱館府」はこれを迎撃するため、松前・津軽藩兵を大野、七飯に派兵しましたが、箱館府軍は旧幕府軍に敗北を喫し、五稜郭は旧幕府軍に占拠されました。同年11月、旧幕府軍は明治政府方に加担する松前藩を攻撃して松前城館城を攻略し蝦夷地を鎮圧します。そして同年12月、「箱館政府」を樹立しました。しかし翌明治2(1869)年4月、乙部に上陸した明治政府軍の反撃が開始され、また前年 開陽丸を失ったことで明治政府軍に制海権を奪われ、箱館政府軍は徐々に追い詰められます。そして5月、弁天岬台場、四稜郭、千代ヶ岡陣屋等の砦、堡塁が陥落するにいたって、箱館政府軍の敗北は濃厚となり、5月18日 榎本武揚、松平太郎以下の箱館政府軍は明治政府に投降して五稜郭は明治新政府に明け渡されました。その後、五稜郭は明治政府の兵部省の管理下に置かれましたが、明治4(1871)年 札幌に開拓使本庁を移す際、庁舎建設の資材として五稜郭の奉行所庁舎、付属建物は解体されました。そして跡地は明治6(1873)年から同30(1897)年まで陸軍省の練兵場として利用され、大正2(1913)年 函館区に貸与され、現在は公園として利用されています。
歴史・沿革
五稜郭 一の橋と城址碑
メモ
江戸末期の蝦夷地の行政機関
形態
西洋式近代堡塁
別名
亀田御役所土塁・柳野城
遺構
郭(平場)・虎口・門祉・土塁・見隠塁・石垣・濠・稜堡建物祉・復元函館奉行所
場所
場所はココです
駐車場
周辺に有料駐車場あり
訪城日
平成23(2011)年10月12日
五稜郭は函館市街地の中央部に位置する西洋式の近代堡塁です。堡塁は一辺300mの星形の五角形をし、南側の大手口にのみ半月堡と呼ばれる馬出塁が設けられています。(写真左上) 周囲に巡らされた濠は幅25−30m・深さ5−6mほど、5ヶ所の稜堡に合わせて塁線の中央には「くびれ」「折れ」が見られます。(写真右上ー南側の濠 写真左ー東側の濠 写真左下ー北側の濠) また塁線は成形された石塁で石垣が構築されています。現在、五稜郭内へは南側大手の一の橋と北側の裏門橋から入ることができますが、管理人は当然 一の橋から入城しました。
半月堡(写真左上)
五稜郭の大手前面を防御するための三角形態の馬出塁。規模は東西100m×南北90mほど、内部は窪地状になっていて(写真右上)、周囲は成形された高さ5mの石垣で構築されています。(写真右・左下) 特徴的なのは石垣の上部に設けられた「武者返し」と呼ばれる刎ね出し石垣で、じつの所 管理人はたぶん、人吉城とここでしかこの遺構を見たことがないと思います。半月堡は計画当初、5ヶ所に設ける計画だったようですが、財政難により1ヶ所のみになったと伝えられます。でっ、半月堡から五稜郭へは二の橋で繋がっています。(写真右下)
現在、五稜郭の虎口は3ヶ所に確認でき、すべて同じ構造になっています。同一箇所に木戸は2ヵ所に設けられ、最初の木戸は内側の大土塁の窪んだ部分に設けられた低めの土塁を切って敷設されています。(写真左上・右上) 土塁の規模は幅10m・高さ2−2.5mほど、石垣で構築されています。でっ、大土塁の手前には長細い小空間が設けられ、大土塁に接して幅6−7mの濠が100m敷設されています。(写真左) 大土塁は幅25−30m・高さ7−8mほど、上部には「武者返し」が敷設され(写真左下)、土塁状は内側が低い2段構造になっています。(写真右) また虎口の内側には「見隠塁」と呼ばれる防塁が設けられ、直進できないように設計されています。
(写真左上) 南側の「見隠塁」 規模は幅15m×長さ50m・高さ4−5mほど、裏面を除く三方は石垣構造になっています。また北・東側の「見隠塁」も同一規格で構築されています。
(写真右上ー東側の門祉 写真右ー東側の「見隠塁」 写真左下ー北側の「見隠塁」
(写真右下) 北側の裏門橋
裏門橋を渡った五稜郭の北側には幕府給人の役宅が設けられていましたが、明治2(1869)年の「函館戦争」の際、防衛の妨げになるとして箱館政府により焼き払われたと伝えられます。
五稜郭の五隅には砲撃台場・稜堡が設けられています。規模は最大幅70mほど、塁線を膨らますことにより、正面・側面への攻撃を可能にしています。(写真左上ー南稜堡 写真右上ー南東稜堡)
(写真左) 北東稜堡 大砲を運んだ坂が残存しています。坂道は「函館戦争」の際、5ヶ所の稜堡に設けられたと推測され、2本の轍が確認されています。
(写真左下) 北西稜堡 明治時代の記録には稜堡部分に6ヶ所の弾薬庫があったことが記され、北西部から弾薬庫祉が確認されています。
(写真右下) 南西稜堡
五稜郭内部には函館奉行所をはじめ、諸々の施設が建てられていましたが、明治4(1871)年 開拓使本庁舎を札幌に移す際、資材として解体されました。このため遺構等は残っていませんが施設・建物の地割がわかるように平面表示されています。なお函館奉行所の本庁舎は平成22(2010)年に復元されています。(写真左上ー函館奉行所 写真右上ー付属建物祉)
(写真右) 近中長屋・徒中番大部屋・給人長屋祉
(写真左下) 仮牢獄・公事人腰掛祉
(写真右下) ブラッケリー砲とケルップ砲
秋田の中世を歩く