花 巻 城
岩手県花巻市城内・花城町
立地・構造
 花巻城は北上川の右岸、河岸段丘上(比高20m)に築かれた平山城で、北の瀬川、南の豊沢川の段丘崖を利用して城域を区画した近世城郭です。城の規模は東西600m×南北450mほど、城縄張りは北東端に本丸を構え、本丸の西ー南側をカバーするように二の丸が、さらに二の丸の西ー南側に三の丸を敷設した梯郭構造で構築され、各郭は段と濠で区画
現地説明板の図
されています。三の丸の虎口は北、西、南側に設けられ、食違い虎口と桝形虎口が採用され、また二の丸の虎口も東・西側に設けられた桝形虎口になっています。城内の北東端に設けられた本丸は東西160m×南北60mほど、二の丸とL字状に敷設された濠で仕切られ、虎口は東・南側に設けられています。花巻城は直線的な塁線を基調とし、また虎口は桝形、食違い虎口を多用した近世城郭で、現在 城址は市街化等により改変されていますが、本丸部分は遺構が良好に残存し、また各所に痕跡が見られます。

 花巻城の初源は「前九年の役」天喜4(1056)年ー康平6(1063)年)の際、陸奥の俘囚長 安倍頼時が築いた城柵、あるいは清原武則の城柵とも。花巻城(鳥谷ヶ崎城)の初見は永享8(1436)年に記された『稗貫状』で、これによると当時 対立していた和賀氏と煤孫氏による「和賀の大乱」に南部大膳大夫守行が介入して和解させたものの、その後 煤孫上野守が稗貫氏と結んでふたたび 和賀義篤を攻撃したため、南部氏は稗貫氏に対して軍事行動を起こします。そして この際、南部方に加勢した葛西持信が鳥谷ヶ崎城に本陣を置き、稗貫氏の本城 十八ヶ(さかり)と対峙したことが記されています。その後、16世紀中期 稗貫氏は十八ヶ(さかり)から鳥谷ヶ崎城に拠点を移し、この頃 花巻城の原型が築かれたものと推測されます。天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原の陣」鳥谷ヶ崎城主 稗貫広忠は参陣せず、このため「奥州仕置」で稗貫氏は所領没収・改易となり、秀吉の代官 浅野長政の家臣 浅野重吉が城代として鳥谷ヶ崎城に入城しました。同19(1591)年、紫波・稗貫郡が三戸城主 南部大膳大輔信直の領地になると、信直は鳥谷ヶ崎城に一門衆の北主馬秀愛を城代として据え、稗貫・和賀郡の支配拠点としました。慶長5(1600)年の「関ヶ原」の際、南部信濃守利直が出羽国最上への出陣中の隙をついて、和賀忠親が一揆を起こして花巻城を急襲しましたが、秀愛の父 尾張守信愛によって撃退されたと伝えられます。慶長18(1613)年、信愛が死去すると、花巻城に利直の次男 彦九郎政直が据えられ、信愛が整備した城郭を近世城郭として完成させ、また城下町を整備したとされます。明治2(1869)年、廃城。
歴史・沿革
花巻城 復元された本丸の西御門
メモ
中世 ー 稗貫氏の本城
近世 ー 盛岡南部藩の支城
別名
鳥谷ヶ崎城
形態
近世平山城
遺構
郭(平場)・土塁・櫓台・復元御門・移築城門・虎口・桝形・石垣・井戸祉・土橋・堀(濠)
場所
場所はココです
駐車場
城内武道館の駐車場借用
訪城日
平成19(2007)年6月6日 平成21(2009)年10月29日
花巻城は北上川西岸の河岸段丘上に築かれた平山城です。(写真左上) 本丸のある北側は比高差20mの断崖になっていて(写真左)、下に外濠をなした瀬川が流れています。(写真右上) 城址は現在、本丸部分が公園、二の丸が小学校の校地・公的施設の敷地、三の丸が城宅地等になっていますが、随所に城郭遺構が残存し、ケッコウ見どころの多い城址です。

城外から城内に繋がる虎口は北、西、南側の三ヶ所に設けられ、このうち南虎口は説明板(写真右)によると円城寺坂と呼ばれるスロープ導線で繋がり(写真左上)、下部に食違い虎口が、上部に桝形虎口が設けられていたようです。なお円城寺門は移築され現存しています。(写真左下) また大手門に想定される西虎口と北虎口(早坂御門)は消滅。(写真右下ー早坂御門祉)
三の丸(写真左上) 往時、家臣屋敷地が設けられた区域、現在は住宅地になっています。二の丸と高さ7−8mの段差で仕切られ、境目に濠が穿たれていました。(写真右上ー濠祉) 東側に馬場口御門が設けられ(写真左)、円城寺門から北上する導線はこの門を通り、二の丸の東御門に繋がっています。(写真左下ー東御門祉)
二の丸(写真右下) 本丸の西ー南側をカバーし、現在 花巻小学校校地・武徳館の敷地になっていて、南縁に分厚い土塁が残っています。
本丸は北ー東側を段丘崖で画し、西ー南側はL字状に濠を巡らして独立させています。濠の規模は幅10−15mほど。(写真左上) 二の丸から本丸へは南東側の土橋をわたって御台所前御(南御門)門に繋がるルート(写真右上ー土橋 写真右ー南御門祉)と、西側の馬屋から西御門に繋がるルート(写真左下ー馬屋 写真右下ー西御門)があり、西御門が大手と想定されます。なお御台所前御門に桝形空間がクッキリ残り、西御門は城壁を含めて桝形が復元されています。
本丸(写真左上) 規模は東西160m×南北60mほど、南縁に分厚い土塁が良好な状態で残存し、中央南部に径1−1.5mの井戸祉が残っています。(写真右上) また東端に菱櫓と呼ばれる櫓が設けられていたようです。(写真左) 櫓台の規模は6−7m四方×高さ1−1.5mほど、城の規模に比べて規模の小さいものだったのでしょう。 
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