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本館は北上川の支流 瀬川南岸の自然堤防上に築かれた平城で、全体の規模は推定 東西400m×南北200mほど、瀬川を北側の堀に見たて、東ー南ー西側にコ状に堀を穿って城域を区画していたと推測されます。なお内部に複数の郭があったものと思われますが不詳。現在、城址周辺は工場用地、宅地化により相当
改変され遺構等は明確でありませんが、東側の堀のみ 部分的に残存しています。 |
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築城時期・築城主体ともに不明。通説では稗貫氏が享禄年間(1528−32年)頃、鳥谷ヶ崎城に移るまで稗貫本城とした十八ヶ城に比定されています。十八ヶ城の初見は永享7(1435)年に勃発した「和賀の大乱」時に記された『稗貫状』で、これによると同年 和賀領内で煤孫上野が和賀小次郎義篤に叛旗を翻した際、稗貫出羽守は煤孫方に加担して和賀義篤の籠る飯豊城を攻撃します。このため義篤は南部左馬権守守行に救援を依頼し、南部氏の仲介で両軍の和議が成立しました。しかし同年、再び煤孫・稗貫勢が和賀義篤を攻撃したため、翌8(1436)年
南部遠江守義政は稗貫領に侵攻して十八ヶ城(瀬川城説もあり)を攻撃し、このため稗貫氏は南部に降伏を余儀なくされました。なお稗貫氏が鳥谷ヶ崎城に移った後、稗貫氏の一族 本舘氏が居住したと伝えられます。天正18(1590)年、稗貫氏改易により廃城か?。 |
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稗貫氏の本城(推定) |
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平城 |
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十八ヶ城(推定地) |
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堀祉 |
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場所はコノヘンらしいです |
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路上駐車 |
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平成21(2009)年10月29日 |
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本館は瀬川右岸に築かれた平城ですが、現在 内部は工場用地等に改変されているため範囲・規模は不明瞭になっています。(写真左) 遺構として唯一、残存しているのが城域東側に残る堀祉で、規模は幅10m以上×深さ7−8mある巨大なもの。(写真左下・右下) |
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