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押切城は八郎潟の東岸、馬場目川右岸の平野部に築かれた平城らしいです。城の規模は推定 東西400m×南北900mほど、周囲は馬場目川の旧流路、氾濫原を利用した濠で囲っていたと推測されています。現在、城址は圃場整備事業により消滅し、遺構等は見られません。
築城時期・築城主体ともに不明。城主は浦城主 三浦兵庫頭盛永の嫡子 五郎平盛季と伝えられます。盛季は三浦氏没落後、一時 郡外に遁れましたが、天正5(1577)年 旧領を回復して押切城に |
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拠したとされます。しかし同7(1579)年、盛季は小和田甲斐守(三浦義包か? 三浦盛永の従弟か?)の奸計により殺害され、その後 三浦五郎義包が押切城に居住しました。浦村五郎は天正16(1588)年に勃発した「第二次 湊騒動」で檜山安東方に与しましたが、戦後 ほどなくして子の善四朗とともに変死したため押切城は破却されました。なお各種史料によると三浦盛季は天正16年の「湊騒動」後、一時 郡外に遁れ、その後 押切城に入ったとされますが、清源寺の過去帳に「石頭院殿華岳心公大膳定門 天正七年十二月二十七日 没御年十八歳」とあります。 |