増 島 城
岐阜県飛騨市(旧古川町)古川町片平町
立地・構造
 増島城は古川盆地の中央部、荒城川の右岸に隣接した平城と想定され、現存する天守台から想定すると相当 規模の大きい近世城郭だったと推測されます。(規模・構造等は不明) 荒城川に接岸した古川小学校、天守台のあるあたりが本丸と想定されますが、天守台に隣接した濠が残存するのみで城郭遺構は消滅しています。

  天正13(1585)年に勃発した「富山の役」の際、で飛騨の有力国
三木(みつき)大和守自綱は佐々内蔵助成政方に加担します。このため同年、羽柴秀吉は越前大野城主 金森兵部卿長近に飛騨征討を命じます。飛騨に侵攻した金森勢は三木方の主城を次々に陥落させ、自綱を降伏に追い込みました。そして戦後、長近は飛騨一国を所領として宛がわれ、飛騨北部の支配拠点として同15(1587)年、増島城を築くと 養子の出雲守可重を城主としました。慶長10(1605)年、長近が美濃国小倉山城へ移ると高山城には可重が入り、代わって増島城には可重の嫡子 重近(宗和)が据えられました。しかし元和元(1615)年、「一国一城令」により増島城は廃城となり、廃城以降は「古川旅館」と改称、規模を縮小して存続しました。元禄5(1692)年、金森出雲守頼時の代に金森氏は出羽国上山に転封を命ぜられ、この際 「古川旅館」は破却されたものと思われます。
歴史・沿革
増島城 天守台
メモ
金森長近が築いた近世城郭
形態
近世平城
別名
 古川旅館
遺構
天守(櫓)台・石垣・濠・移築城門
場所
場所はココです
駐車場
町民グラウンドの駐車場借用
訪城日
平成18(2006)年5月29日
現在、増島城は天守台(写真左上・右上)と北 ー 西側の内濠と思われる濠が現存しています。(写真左下) 天守台は本丸の北西隅にあったと推測され、東側の古川小学校校地が本丸に想定されるようです。石垣は「野面積」で構築されていますが、隅部は加工されたものが使用されています。(写真左) 濠の規模は幅10−15mほど、残存する天守台、濠の規模から想定すると増島城は相当デカイ城郭だったと思われます。
増島城に近い林昌寺の山門は、増島城廃城時に移築されたと伝えられる城門です。薬医門形式の質素な門ですが、増島城のどの部分の門かは不明。(写真右上)
秋田の中世を歩く