飛騨国司 姉小路家の墳墓群
岐阜県飛騨市(旧古川町)古川町杉崎・岡前(諏訪神社境内)
 飛騨国司 姉小路家は藤原北家 摂政関白太政大臣 藤原忠平を祖とし、忠平の五男で左大臣の師尹(もろただ)の次男 大納言 済時(なりとき)が京の姉小路に館を構えたことから姉小路を称したとされます。そして鎌倉期、姉小路氏は鎌倉幕府と関係を持ち鎌倉に拠していましたが、元弘3(1333)年の幕府滅亡により姉小路高基は京に戻ります。そして建武年間(1334-36年)、高基の嫡子 家綱が飛騨国司に任ぜられ、飛騨に下向したのが飛騨国司家 姉小路氏の初源となります。家綱が当初、守護所とした居館の場所は不明。一説には小島城、また信包城(向小島城)とする説もあるようですが、現在 墳墓群のある諏訪神社周辺の杉崎地区にあったものと思われます。そして飛騨姉小路氏は南北朝期、南朝方として行動し 北朝方の飛騨国守護職 京極氏と対峙しました。明徳3(元中9 1392)年の「南北朝合一」時、飛騨国司は家綱の嫡子 師言(もろとき)が継承していましたが、この頃から飛騨姉小路氏は三家(「小島家」「古川家」「向家」)に分裂し それぞれが互いに飛騨国司を称するようになります。そして宗家の小島家と庶流の古川家の対立が激化し、応永18(1411)年 小島家を支持した将軍 足利義持は古川尹綱討伐軍を飛騨に派兵しています。(「応永飛騨の乱」) また応仁2(1468)年、小島新中将勝言(かつとき)と古川左近衛中将基綱の所領争いから三家はふたたび対峙します。そして内乱は小島家の勝利で終結し、文明12(1480)年には幕府から領国を安堵されました。しかし翌13(1481)年、勝言が幼い嗣子 時秀を残して死去すると、古川基綱が時秀の後見人となり飛騨国司家での発言権を強大なものとします。そして基綱と参議 済継(なりつぐ)父子は小島家の権益を奪取しましたが、永正15(1518)年 済継が死去すると、あとを継いだ侍従 済俊(なるとし)は台頭する高原郷の江馬左馬介時盛、南飛騨の三木大和守直頼の勢いを抑えきれず、享禄4(1531)年 小島氏・向氏の協力を得た三木勢の攻撃を受けて古川城は陥落しました。そして「古川家」の勢力衰退により三木氏と誼を結んだ「小島家」がふたたび勢力を盛り返します。しかし天文年間(1532-55年)、古川盆地は三木飛騨守良頼に席巻され、永禄3(1559)年 良頼の嫡子 左衛門佐自綱(よりつな)は朝廷から古川姉小路家の名跡継承の許可を得ています。一方、小島姉小路家の家督は時秀のあと、左中将時親ー右少将雅秀ー侍従時光ー元頼(自綱の実子)と受け継がれましたが、天正13(1585)年 金森長近の「飛騨侵攻」により飛騨国司 姉小路氏は滅亡しました。現在、諏訪神社境内に残る墳墓群は五輪塔の上部部分を集めたものと思われますが、誰のものなのかは不明。(場所はココです)
伝姉小路家の墳墓群 
伝姉小路家の墳墓群 
伝姉小路家の墳墓群