東 根 城
山形県東根市東根
立地・構造
 東根城は村山盆地の北東部、白水川の支流 日塔川北岸の河岸段丘上(比高10m)に築かれた平山城で、沼地を自然の濠として防御に利用して構築されていたと思われ
ます。城の規模は推定 東西400m×南北550mほど、城縄張りは主郭に想定される現在の東根小学校を中心に、西から南側に二の郭、東側に三の郭を配した連郭構造で構築され、北側に外郭が構えられていました。規模は主郭が東西130m×南北50m、二の郭が幅50−70m、三の郭が東西200m×南北120mほど。主郭の周囲は土塁と石垣で固められ、土塁上に土塀が巡らされていたと伝えられます。大手は主郭の北西側に設けられていました。現在、城址は住宅地等に改変されているため遺構等は不明瞭になっています。

 東根城は南北朝期の貞和3(正平2)(1347)年頃、出羽の南朝勢力に与した小田島長義により築かれたと伝えられます。しかし小田島氏は南北朝の騒乱中に衰退し、代わって応永2(1395)年頃 斯波(最上)氏の庶子家 天童城主 天童頼直の四男 頼高が東根に入封し 東根氏を称しました。その後、東根氏は斯波一族として東根を支配しましたが、戦国期 宗家 最上氏から独立して反最上の立場を明確にした「天童八楯」に加担します。天正9(1581)年、山形城主 最上出羽守義光が天童城主 天童甲斐頼澄を攻撃すると、東根頼景は天童方に与しましたが、「天童八楯」は最上氏の調略を受けて崩壊し、東根氏は天童氏とともに敗れて東根城は落城しました。東根氏没落後、東根城は最上方に内応した東根氏の一族 里見薩摩景佐に宛がわれ、里見氏により東根城と城下の整備が施されたとされます。元和8(1622)年の最上氏の改易により東根城は廃城となり、以後 東根城に山形藩の陣屋が置かれ、寛文元(1661)年に破却されました。
歴史・沿革
東根城 主郭の模擬城壁
メモ
天童斯波氏の庶流 東根氏の館城
形態
平山城
別名
小田島城 
遺構
郭(平場)・濠祉
場所
場所はココです
駐車場
龍興寺池公園駐車場
訪城日
平成18(2006)年9月22日
東根城は日塔川北岸の河岸段丘上に築かれた平山城で(写真左上)、主郭部分が東根小学校の校地になっています。(写真右上) 主郭の規模は東西130m×南北50mほど、小学校の西ー南側に城壁が復元されています。(写真左ー違和感なし) また小学校内に「東根の大欅」と呼ばれる樹齢1500年以上の巨木が立っていて、城址のランドマークになっています。(写真左下) でっ、主郭の西から南側に二の郭が敷設され、大手口は主郭の北西側に設けられていたようです。(写真右下)
(写真左上) 東口御門祉
(写真右上) 二の郭の南東端に祀られる作城稲荷
三の郭
主郭の東側に位置し、規模は推定 東西200m×南北120mほど、現在 養源寺、本照寺の境内、東の杜資料館が建てられています。(写真右ー養源寺山門 写真左下ー養源寺本堂 写真右下ー東の杜資料館)
里見景佐の墓所(写真左) 天正12(1584)年、東根城主となった里見景佐はもともと東根氏の重臣でしたが、天正9(1581)年 最上氏と天童氏が対立した際、最上方に内応し、戦後 東根城主となりました。景佐は元和6(1620)年に死去するまで、東根城と城下町の整備を行ったと伝えられます。
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