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笹館城は大館盆地の南東部、引欠川右岸の南方向に張り出した低丘陵先端(比高10m前後)に築かれた丘城(平城?)で、引欠川を自然の濠としています。現在、城址に養牛寺が創建され、また周囲は耕作地に改変され、城域・規模・構造等は不明。
築城時期・築城主体ともに不明。『長崎氏旧記』に「永正十七年四月、御舎弟 浅利勘兵衛頼重殿、笹館城代となる」とあり、浅利則頼の弟 頼重が笹館城に入城したとされ、この頃までに笹館城は築かれていたものと思われます。その後、頼重は則頼の次男 勝頼の次子 頼広を養子としていま |
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す。そして頼広の兄 頼平は父 勝頼が天正10(1582)年、檜山城主 安東愛季に謀殺された後、一時期 津軽の大浦為信の元に身を寄せましたが、天正18(1590)年 安東実季が比内を回復すると安東氏に従属する形で比内郡に戻り、安東氏の代官として比内郡を統治しました。その後、頼平は「文禄の役」(天正20−文禄2年)の軍役金、太閤蔵入米の件等で安東氏と対立し、安東氏からの独立を求めるようになります。そして慶長3(1598)年、頼平は安東氏との裁定の件で大阪に呼ばれましたが、在坂中に急死し、比内では浅利の武力蜂起が勃発します。このため安東実季は比内に進攻して乱を鎮圧し、この際
頼広は笹館城で討死したと伝えられます。 |