日 野 城
滋賀県蒲生郡日野町西大路
立地・構造
 日野城は日野川の右岸、比高30mの段丘上に築かれた平山城で、主郭を中心に丘陵続きの南側に副郭を、北側に外郭を構えた連郭構造で構築されています。城の規模は推定 東西200m×南北350mほど、中心に構築された主郭は高土塁と濠で囲郭された甲賀特有の方形郭と想定され、規模は東西100m×南北100mほど?、現在 北側の土塁と濠が残存しています。南側の副郭は日野川ダム建設や公園整備等により遺構は消滅し規模は不明。また北側に敷設された外郭は家臣屋敷地が配置されていたと推測され、有事の際 前衛陣地として使用されたと思われます。

 日野城は文亀・永正年間(1501−21年)頃
、蒲生氏により築かれたことを初源とします。大永2(1522)年、蒲生氏の庶流 左兵衛大夫高郷は蒲生嫡流を乗っ取るべく、近江国守護職 六角弾正少弼定頼の支援を受けて音羽城の蒲生刑部大輔秀紀を攻撃します。そして秀紀は音羽城に籠城して抵抗を続けましたが、定頼の調停により降伏し鎌掛城に退去して、音羽城は破却されました。そして同5(1525)年、高郷は鎌掛城の秀紀を謀殺し、高郷の嫡子 下野守定秀を蒲生嫡流の家督に据えました。享禄3(1530)年、定秀は京へ出陣し、また同4(1531)年の「簑浦の戦」に六角定頼方に与して参陣して勢力を拡大させ、天文2(1533)年 新たな拠点として日野城を築いたとされます。定秀はさらに次男の駿河守茂綱を青地氏へ、三男の左近将監実隆を佐久良城主 小倉氏へ養嗣子として入れ、また伊勢の関氏や神戸氏とは婚姻関係を結んで独自の外交を推し進めました。永禄6(1563)年、「観音寺騒動」が勃発すると定秀、左兵衛大夫賢秀父子は内訌終結に奔走し、また同10(1567)年 「六角氏式目」が制定されると六角氏の重臣としてこれに連署しています。同11(1568)年、織田信長が足利義昭を擁して近江に侵攻し六角氏が没落すると、賢秀は嫡子の鶴千代(後の氏郷)を人質として織田方へ差し出し、織田の支配下に入ります。天正10(1582)年、「本能寺の変」が勃発すると安土城の留守役をつとめていた賢秀、氏郷父子は信長の妻女を日野城に迎え入れ、明智と対峙しています。同12(1584)年、蒲生氏郷は伊勢国松ヶ島へ転封となり、代わって日野城には田中筑後守吉政ー長束大蔵大輔正家が順次 入城しましたが、慶長5(1600)年の「関ヶ原」後に廃城。元和6(1620)年、市橋下総守長政が日野に入封して仁正寺藩を立藩し、日野城跡に陣屋を構え仁正寺市橋藩は「明治維新」まで続きました。 
歴史・沿革
日野城 主郭の虎口?
メモ
蒲生定秀以降の蒲生氏本城
形態
平山城 
別名
中野城 
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・石積?・濠・土橋
場所
場所はココです
駐車場
登り口に路上駐車
訪城日
平成20(2008)年4月1日
現在、日野城址は廃城後の開墾、戦後の日野川ダム建設等により相当 改変されていますが、主郭部分は比較的 遺構が残存しています。日野城主郭は高土塁で囲郭された甲賀特有の方形郭が想定され、規模は東西100m×南北100mほど?。北側に濠(写真左上・右上)と土塁が部分的に残存し、分厚い土塁上に稲荷社、涼橋神社が祀られています。でっ、北からの導線は濠に架けられた土橋を渡り、北東側の虎口から主郭内部に入ります。(写真左・左下・右下)
北側の分厚い土塁上には稲荷社や仁正寺藩市橋氏が勧進したと伝えられる涼橋神社が祀られています。(写真左上ー稲荷社 写真右上ー北東隅の涼橋神社) 
昭和40(1965)年、日野川ダムの建設により日野城の大部分は消滅しています。本来、写真に見られる部分は日野川に面した城壁だったと思われます。(写真右)
仁正寺藩藩庁祉(写真左)
元和6(1620)年、市橋長政は仁正寺藩を立藩して日野城の北側外郭部に陣屋を構えました。陣屋の建物・施設は「明治維新」後、移築され 現在 藩庁祉碑が建てられています。
 
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