松 浦 法 印 鎮 信 の 墓 所
長崎県平戸市岩の上町
 松浦鎮信は戦国末期ー江戸初期に活躍した肥前平戸松浦氏 二十六代当主(平戸藩初代藩主)です。鎮信は天文18(1549)年、肥前守隆信の嫡子として生誕し、永禄11(1568)年 父 隆信の隠居により松浦家の家督を継ぎました。鎮信が家督を継ぐ2年前、平戸松浦氏は明神浦松浦氏の家督争いに介入して明神浦領を併呑し、さらに元亀3(1572)年 鎮信は大村純忠の籠る三城を攻撃しています。しかしこの頃から肥前東部で龍造寺隆信の勢力が台頭し、鎮信は龍造寺氏と対峙しました。天正12(1584)年、龍造寺隆信が「沖田畷の戦」で戦死し、同じ頃 中央で羽柴政権が樹立すると、鎮信はいち早く羽柴秀吉と誼を結びます。そして同14(1586)年、鎮信は松浦領に侵攻してきた大村純忠、有馬義純、宗義智、波多信時、有田盛連合軍を広田城で撃退しています。(「広田城の戦」) 同年、羽柴政権による「九州の役」が開始されると鎮信は上方勢に加担し、戦後 所領を安堵されています。天正20(1592)年、「文禄の役」が開始されると鎮信はほかの肥前衆とともに一番隊に組み込まれ、壱岐国勝本城の築城に携わっています。また文禄元(1592)年の「鵲院関の戦」、慶長2(1597)年の「蔚山城の戦」、慶長3(1598)年の「順天城の戦」「露梁海戦」などで軍功を挙げています。慶長5(1600)年の「関ヶ原」の際、鎮信の嫡子 肥前守久信は在阪だったため、成り行きから西軍に加担しましたが、在国していた鎮信は肥前衆を招集して東軍に加担する意思を確認し、戦後 所領を安堵されました。慶長7(1602)年、嫡子の久信が死去すると、鎮信は孫の隆信を後見し江戸で家康に拝謁しています。慶長19(1614)年5月16日(7月3日) 没。(場所はココです)
松浦鎮信の墓所
松浦鎮信の墓碑 
<鎮信の戒名>
慈眼院殿天融源長公法印
慈眼院殿前肥州太守天融源長法印
最教寺 本堂 
正式名称は「高野山 最教寺」。宗派は真言宗智山派、御本尊は虚空蔵菩薩像。開山は慶長12(1607)年、鎮信により創建。
参道