平 泉 遺 跡
岩手県西磐井郡平泉町
歴史・沿革
<奥州藤原氏の発生>
ー 前九年の役 (永承6(1051)年ー康平5(1062)年) ー
 奥州藤原氏の祖 清衡が誕生したのは、天喜4(1056)年と伝えられ、亘理権太夫 藤原経清を父とします。藤原経清は陸奥国南部(現在の宮城県亘理周辺)を領する豪族だったと推測され、また母は当時 北上川中流域を領していた陸奥の俘囚長 安倍頼時の(むすめ)と伝わっています。安倍氏は陸奥の在地勢力を統合した軍事的同族連合体の頂点に立ち、衣川以北に関して中央政権から独立した存在と認知されていました。そして頼時の代になると、貢賦・遙役を怠るようになり、また衣川以南の陸奥国府(多賀城)の支配領域にまで勢力を伸ばそうとしたため、朝廷は源頼義、義家父子を陸奥に送り込み、安倍頼時と対峙することとなります。(「前九年の役」) 藤原経清は当初、源頼義方に加担しましたが、周囲の讒言により身の危険を察知すると、安倍頼時方に寝返り、以後 頼時の子 貞任、宗任兄弟とともに源頼義軍と対峙しました。そして内乱が長期化すると、頼義は奥陸奥の俘囚を手懐けて叛乱を起こさせ、また出羽の俘囚長 清原武則一族を味方に付けることに成功し、厨川の柵で安倍頼時を討ちとり内乱を終結させました。この際、藤原経清は頼義軍に捕縛され斬首されたと伝えられます。戦後、経清の室 安倍頼時の女は清原武則の嫡男 武貞と再嫁し、清衡は連れ子として清原氏に引き取られました。この再嫁は当時の恩賞形態と推測され、清衡は父の怨敵 清原氏のもとで成長しまいた。そして清原武則は「前九年の役」の論功行賞で鎮守府将軍の役職と安倍氏の旧領を得ることになり、飛躍的に勢力を拡大していきました。
ー 後三年の役 (永保3(1083)年ー寛治元(1087)年) ー
 「前九年の役」から20年、清原(藤原)清衡は北上川中流域の豊田館を拠点としていました。清衡が安倍氏の血を引き継いでいたため、清原氏は安倍氏旧領を管理するのに最適と考えていたのでしょう。この間、清原氏は武則・武貞と続き真衡の代になります。真衡は同族連合体制から惣領至上体制への権力移行を明確にしたため、反真衡派(真衡の庶弟 清衡・家衡等)は真衡に対して叛旗を翻し、清原氏の内訌は「後三年の役」に発展します。永保3(1083)年、源義家が陸奥国司として多賀城に下向すると、義家は真衡方に加担して清衡、家衡と対峙しました。このため清衡、家衡は戦況不利となり義家に降伏しましたが、真衡が急死したため 一時休戦となります。その後、真衡の陸奥遺領は清衡(陸奥南部三郡)と家衡(陸奥北部三郡)に分知されましたが、分知された所領に不満を持った家衡は清衡暗殺を企て、「清衡の館」(豊田館)を急襲しました。そして難を逃れた清衡がことの次第を義家に訴えると、義家は家衡の行動を国府への反逆と捉え、朝廷に「家衡追討」の令旨を求めます。しかし令旨はおりず、このため義家は朝廷の許可を得ずに軍事行動を起こしました。しかし叔父 武衡の支援を受けた家衡軍は手強く、義家・清衡軍は苦戦を強いられましたが、金沢柵を兵糧攻めで攻略して家衡討伐に成功しました。その後、清衡は安倍・清原一族で唯一の生き残りとして、陸奥・出羽両国に着実に勢力を伸ばしていきました。
ー 清衡、平泉へ(康和元(1099)年) ー
 寛治元(1087)年、「後三年の役」に勝利した藤原清衡はその後も、豊田館を拠点として着々と勢力を拡大していきます。また寛治5(1091)年、源義家の招きで上洛を果たし、摂関家との関係を持つことにも成功し陸奥に戻りました。その後、朝廷工作を続けた清衡は陸奥国府(多賀城)の動向を観測しながら、康和元(1099)年 衣川を越えて南下し平泉の都市建設に着手しました。平泉は北上川が陸奥の狭隘な山間を抜ける要衝に位置し、また北上川の舟運交易を想定した好都合な適地であったと推測されます。また平泉は朝廷側と蝦夷側を分ける衣関の南側に位置しており、ここに都市建設を行なうことは大和朝廷の陸奥支配が弱体化したことを意味し、この後 陸奥国府の蝦夷地支配は形骸化していきました。
<奥州藤原氏の終焉>
 藤原氏は清衡が陸奥・出羽に確固たる地位を築きあげ、基衡・秀衡の代に奥州一円を領する支配者に成長し、朝廷の権力からも隔離された独立王国となります。この間、平泉には中尊寺、毛越寺、観自在王院、無量光院等の大伽藍が建立され、政治・経済の中心都市とともに文化機能をも併せ持つ都市に変化してゆきました。奥州藤原氏に異変がおこるのは、承安4(1174)年のことになります。この年、源九朗義経が藤原秀衡を頼って平泉に来ます。秀衡は朝廷に一切干渉しない「奥州版モンロー主義」を貫いていましたが、源氏の御曹司を匿うことで、白河関以南の政治勢力を奥州に導くことになりました。治承4(1180)年、源頼朝が伊豆で挙兵すると、義経は秀衡が止めるのも聞かず 頼朝のもとにはせ参じます。そして鎌倉軍は文治元(1185)年、「壇ノ浦」で平家を滅ぼしましたが、その後 頼朝と義経は不和となり、このため義経は奥州藤原氏を頼って ふたたび平泉に赴きました。義経には朝廷から追討令が宣旨されており、この時点で奥州藤原氏と鎌倉政権(源頼朝)の関係は軍事的緊張関係になったと推測されます。文治3(1187)年、秀衡が死去すると頼朝は朝廷に働きかけ、鎮守府将軍 藤原基成(平泉在住)と泰衡に義経追討の宣旨を出させて圧力をかけます。 文治5(1189)年、追い詰められた泰衡は義経を高館に攻めて自害に追い込みましたが、頼朝は奥州討伐の好機と捉え、鎌倉軍は奥州征伐に向かいました。当初、泰衡は鎌倉軍迎撃に動きましたが次第に劣勢となり、平泉を捨てて北へ落ち延びます。しかし泰衡は比内郡贄の柵で郎党の河田次郎に謀殺され、奥州藤原氏はここに滅亡しました。
平泉遺跡 柳之御所の大溝(堀)
メモ
奥州藤原氏が建設した計画都市
形態
古代計画都市
遺構
平場・堀・建物祉・井戸・園地
場所
場所はココです
各所に遺跡・寺院が散在
駐車場
それぞれ駐車場あり
(中尊寺・毛越寺は有料)
訪城日
平成18(2006)年9月30日 平成23(2011)年11月12日
ー 柳  之  御  所 ー
 柳之御所は北上川の右岸、北西から南東方向に延びた自然堤防上に築かれた奥州藤原氏の政庁施設と推測され、『吾妻鏡』の文治五年九月十七日の条「一、館の事秀衡金色正方無量光院の北に並び、宿館を構う、平泉館と号す、・・・・・ 無量光院の東門に一郭を構う、加羅御所と号す、秀衡の常の居所なり、泰衡これを相継ぎ居所となす」と記された平泉館に比定されています。規模は幅200m×長さ700mほど、北ー東側は北上川で、西側を猫間ヶ淵と呼ばれる湿地帯で画し、その内側に大規模な(大溝)が穿たれ 御所を独立させていたようです。また内部は板塀によっていくつかの空間に分割されていたと推測され、外
部に繋がる木戸は北西、西、南側に設けられ、それぞれ中尊寺・無量光院、加羅御所方向に繋がっていました。内部から発掘調査により中心殿舎建物、付属建物、園地()(大溝)、井戸等が確認され、政庁機能とともに「ハレの場」「儀礼の場」「接待の場」等の対外的な機能も併せ持っていたと思われます。現在は遺跡公園として発掘された遺構が平面表示されています。
(写真左上) 南側からの遺跡全景
(写真右上) 猫間ヶ淵、柳之御所を区画した自然の外濠
(写真左) 御所を囲った堀は現在、南東ー南ー南西側が復元されています。規模は幅15m×深さ5mほど。
(写真左下) 橋祉、御所から外部に繋がる橋は現在、3ヶ所確認されています。写真は南東側の堀が屈折した部分に設けられた橋祉です。 
(写真右下) 南側の道路祉、規模は幅10−12mほど。
(写真左上) 廊下状建物、建物間を繋ぐ廊下状の建物と推測されています。
(写真右上) 園地、中心建物の南西側に位置し、規模は東西35m×南北45mほど。池は新旧2期にわたり改修されていました。
(写真右) 中心建物、「儀礼の場」に利用されたと推測される大型の建物。東西2棟からなり、東建物は南北25mある長大な建物です。
(写真左下) 大型建物、御所の北東側に位置し規模は東西20m×南北18mほど。
(写真右下) 中心建物に付随した建物。
(写真左上) 井戸祉、御所内部からは計六十四基の井戸が確認されています。
(写真右上) 汚物廃棄穴、ちゅう木が大量に発見された穴で、糞尿等の廃棄物を捨てた穴と推測されています。
(写真左) 中心建物の周囲には これに付随したと思われる建物が複数 確認されています。
(写真左下) 無量光院への道
(写真右下) 伽羅之御所柳之御所の南側に位置し秀衡・泰衡時代の居館と推測されています。
ー 毛   越   寺 ー
 毛越寺は嘉祥3(850)年、慈覚大師円仁により創建されたと伝えられます。その後、寺院は荒廃しましたが 長治年間(1104−06年)、藤原清衡により再興されました。しかし太治3(1128)年、清衡の死去により嫡宗権をめぐる基衡と異母兄弟間の争いが勃発すると、毛越寺の伽藍は兵火により焼失し、その後 藤原氏の家督を継いだ基衡が久安6(1150)年から久寿3(1156)年にかけて毛越寺境内に金堂
円隆寺を創建し、さらに基衡のあとを継いだ秀衡の代に嘉祥寺が創建されたと伝えられます。『吾妻鏡』の文治五年九月十七日の条「堂塔四十余宇、禅房五百余宇、基衡これを建立す、まづ金堂を円隆寺と号す、金銀を鏤め、紫檀、赤木等を継ぎ、万宝を尽くし、衆色を交ふ霊場の荘厳は吾朝無双」と記されています。奥州藤原氏滅亡後、鎌倉幕府の保護を受けましたが、嘉禄2(1226)年に焼失。江戸期、仙台伊達藩から経済的援助・保護がなされました。円隆寺は白河上皇が創建した京白河の法勝寺の伽藍プランを模したものと伝えられます。(場所はココです)
(写真左上) 南大門祉、『吾妻鏡』「二階惣門」と記された大門。巨大な礎石が12個残存しています。
(写真左上) 大泉ヶ池、極楽浄土を表現した園地、規模は東西180m×南北90mほど、南西側に築山(写真左下)が、南東側に出島石組・池中立石(写真左)が設けられています。
(写真右下) 嘉祥寺祉、基衡が着工し、秀衡の代に完成させた御堂、規模は東西28m×南北22.5mほど。
(写真左上) 金堂円隆寺祉、『吾妻鏡』「吾朝無双」の大伽藍と記され、規模は嘉祥寺と同規模。左右に翼廊が巡らされ、先端に鐘楼が建てられていました。(写真右上ー東側の鐘楼祉)
(写真右) 鑓水、円隆寺の東側で発見された鑓水遺構。平安期の遺構としてレアな遺構。
(写真左下) 現常行堂、享保17(1732)年の再建、御本尊は阿弥陀如来。
(写真右下) 法華堂祉、規模は12m四方ほど、法華三昧を修法する御堂。
ー 観 自 在 王 院 ー
 毛越寺の東側に隣接する寺院・伽藍。創建は藤原基衡夫人(安倍宗任の娘)と伝えられます。境内の規模は東西120m×南北240mほど、中央北寄りに舞鶴ヶ池が設けられ、園地の北側に大阿弥陀堂、小阿弥陀堂の二堂宇が建てられていました。文治5(1189)年の奥州藤原氏滅亡以後、荒廃しましたが、現在は遺跡公園として修復・整備されています。(場所はココです)
周囲に低いながら分厚い土塁(築地)が復元され、発掘調査から南門・西門が確認されています。(写真左上ー南土塁・南門祉 写真右上ー西土塁 写真左ー西門祉) なお観自在王院毛越寺のあるあたりが往時の平泉の南口にあたり、毛越寺観自在王院間の南北大路から牛車を保管する車宿が確認されています。また『吾妻鏡』に南門に繋がるメインストリート(奥大道)に「高屋」(高層建築)が建てられていたことが記され、この周辺に平泉の消費を支えた町屋が構えられていたのでしょう。
境内の中央に設けられた舞鶴ヶ池もまた浄土思想から生まれたものなのでしょう。(写真左上) 現在 修復され、素晴らしい景観を具現化しています。池畔に荒磯を表現した滝石組(写真右上)や洲浜が施され、中央に中島が設けられています。また周囲に伝普賢堂や伝鐘楼の礎石が残存し、北側に阿弥陀仏を安置した大阿弥陀堂が建てられています。(写真左下ー伝鐘楼祉 写真右ー伝普賢堂祉 写真右下ー大阿弥陀堂)
ー 無  量  光  院 ー
 無量光院は藤原秀衡が宇治平等院鳳凰堂を模して創建したと伝えられます。(柱間は鳳凰堂より大きく 全体して鳳凰堂より規模は大きい) 境内の規模は東西240m×南北270mほど、三方を土塁で囲まれていました。境内の中央に池を設けて、池中の西中島に東向きに本堂を建て、本堂の左右に翼廊が設けられていました。境内東側の伽羅御所(秀衡の日常居館)から東中島ー橋ー本堂(西中島)ー金鶏山が同じ東西軸線上に位置してお
推定復元図
り、伽羅御所から見ると夕日が金鶏山(無量光院)に沈むように設計されていたと推測され、浄土思想を具現化して創建されたと推測されています。(場所はココです)
(写真左上) 南東側からの近景、周囲は水田に囲まれ、本堂のあった西中島と東中島が孤島のように浮かんでいます。  
(写真右上・左) 東中島、内部に建物礎石が残っており、なんらかの伽藍施設があったのでしょう。
(写真左下) 本堂祉、発掘調査中のため、内部には入れませんでしたが、周囲に相当デカイ礎石と思われる石塁がゴロゴロしています。
(写真右下) 西土塁、境内の周囲は土塁で囲まれていたと推測され、現在は東・西側に巨大な土塁が確認できます。
ー 中   尊   寺 ー
 中尊寺は寺伝によると嘉祥3(850)年、慈覚大師円仁により創建されたと伝えられます。(円仁開基の客観的事実は確認されていません) その後、長治2(1105)年 衣川を越えて南下した藤原清衡により事実上の創建がなされ、大治元(1126)年の『落慶法要願文』によると「前九年の役」「後三年の役」での戦没者の慰霊と奥州全体を仏国土にしたいという願いから建立されたと伝えられます。当時の中心寺院は二階大堂と呼ばれた大長寿院嘉祥2(1107)年建立)で、内部に高さ3丈(約9m)の御本尊 阿弥陀如来と脇侍として八体の丈六(約4.8m)阿弥陀像が安置されていたと伝えられます。また金色堂は天治元(1124)年 清衡が一族の葬堂として建立した小堂で、堂内の壁、柱、組物をはじめ軒や外側まで漆が塗られ、その上に金箔を押した皆金色になっています。内陣の須弥壇下に清衡、基衡、秀衡三代の棺と泰衡の首級が安置されています。文治5(1189)年、奥州藤原氏滅亡後 鳥羽上皇の勅願寺として鎌倉幕府の庇護を受けていましたが、建武4(1337)年の火災により金色堂を残して諸堂宇は焼失しました。その後の江戸期、中尊寺は仙台伊達藩の庇護を受けて堂宇の修復がなされました。(場所はココです)
中尊寺柳之御所の北西1.5kmに位置し、南西麓の国道沿いから参道が設けられています。(写真左上) でっ、参道をしばらく登ると惣門祉に辿り着きます。(写真右上) 現在、惣門は残っていませんが、側面に門を区画したと思われる土壇が残っています。現在の本堂は明治42(1909)年に再建されたもの(写真左)、さらに進むと左側に金色堂が見えてきます。(写真左下) 金色堂は天治元(1124)年、清衡が持仏堂として創建したもので、現在は解体修復がなされ、ガラスケースと覆堂に収められています。
白山神社(写真左上) 中尊寺の鎮守社として創建され、現在の御堂は嘉永6(1853)年 仙台伊達藩により再建されたもの。境内に近世の能舞台として東日本唯一の能舞台があります。(写真右) なお中尊寺創建当初の中心伽藍 二階大堂はこの境内にあったようです。
ー 高   館 ー
 高館は北上川西岸の段丘上(比高40m)に位置し、衣川館・判官館とも呼ばれています。文治元(1185)年、源頼朝との確執から京を逃れた源義経は各地を流浪し、同3(1187)年 藤原秀衡を頼って平泉に入ります。そして義経は秀衡から高館に居館を与えられましたが、同年 秀衡が死去して泰衡が家督を継ぐと、泰衡は鎌倉の圧迫に耐えかねて同5(1189)年閏4月30日、「義経の館」(衣川館)を急襲して義経を自害に追い込みました。義経の自害した衣川館高館だったのかは賛否両論あるようですが、高館自体は比較的 要害性が高く、また北上川流域を見下ろす要地に位置しており、藤原氏のなんらかの施設があったものと思われます。(場所はココです)
高館は北上川の右岸、柳之御所から北西側に繋がる丘陵上に位置します。(写真左) 義経がこの地で自害したのかは直接的、客観的根拠がなくハッキリしませんが、現在 この地に源義経公像を祀る義経堂が創建され(写真左下)、また義経主従供養のための供養塔が建てられています。(写真右下)
ー 長 者 ヶ 原 廃 寺 ー
 中尊寺の北西1kmに位置する古刹祉。従来は藤原秀衡の御用商人 金売吉次の屋敷祉と伝えられていましたが、その後の発掘調査から東西90m×南北100mの規模を持つ奥州藤原氏以前の安倍氏時代の古代寺院と推測されています。(場所はココです)
(写真左上) 遺跡の南西隅に遺跡標柱と説明板が設置されています。
(写真右上) 寺院は南側を正面として創建され、南側中央に南門が設けられていました。
(写真左) 周囲は土塁(築地)と堀で囲まれていたと推測され、現在 西側の土塁(築地)と堀祉が残存しています。
(写真左上) 内部の中央北側に東西に並ぶ建物祉が確認され、西側の建物が塔と推測され、また東側の建物は金堂と推測されています。(写真右上) 伽藍配置は規模の違いはあるものの法隆寺・法輪寺の伽藍形態に類似しており、8世紀末から9世紀初期のものと思われます。
秋田の中世を歩く