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鍋倉城は横手盆地中央南部の平野部に築かれた平城らしいです。城の規模は推定 200m四方ほど、周囲を濠で囲った単郭(?)の平城と推測され、濠祉と思われる用水堰が集落を囲うように巡らされています。(南側に濠祉と思われる苗代が残存しています)
現在、城址は宅地、耕作地に改変され遺構等は認められず。北側に「城戸」の地名が残っており、虎口が設けられていたと思われます。近世に著された久保田佐竹藩士 岡田知愛の『柞山峯之嵐』に「鍋倉故城は鍋倉相模の邑城なり、今 城跡に土民住居し、堀の跡は苗代な |
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り」と記され、また菅江真澄の『雪の出羽路』に「館といふ村ありしが今はなし、先に城形とありし処 ・・・・・、木戸といふ処村の西北に在り、むかしの柵戸の跡也」と記されています。
築城時期・築城主体ともに不明。城主は在地名 鍋倉を称した小野寺氏の庶子家 鍋倉氏とされ、近世 久保田佐竹藩の角間川給人 南部倉久之助が藩に提出した『鍋倉家系図』によると小野寺禅師太郎道綱より十二代目にあたる式部太輔重道の次男 孫市道政を初代鍋倉城主とし、また『小野寺家系図』では小野寺中務太夫泰道の三男 石見守道周を鍋倉城主としています。いずれにしても15世紀中期頃、小野寺氏の庶流 鍋倉氏が成立していたと思われます。その後、鍋倉氏は惣領小野寺氏の軍役を担いましたが、天正18(1590)年
鍋倉四朗(『鍋倉家系図』の道長か?)は「太閤検地」に抵抗して一揆を起こし増田城で討死したとされます。文禄5(1596)年、最上勢の雄勝侵攻を受けて落城。 |