吉 田 城
秋田県横手市(旧平鹿町)平鹿町上吉田間内字吉田
立地・構造
 吉田城は横手盆地の中央南部、大戸川西岸の平野部に築かれた平城です。城の規模は東西130m×南北110mほど、周囲を濠と土塁で囲った典型的な単郭構造の方形館です。城を囲った濠は幅10−15m、土塁は下幅6−7m×高さ2−3mほど、西側の土塁に「折れ」が見られ、北東隅、南東隅に井桁状の櫓台が見られます。虎口は北・南側の西寄りに設けられ、南虎口が大手口と想定されますが、南土塁の大部分が西法寺の墓地に改変されているため明確ではないようです。(南土塁の西寄りに南
吉田城 概念図
方向にクランクした土塁が見られることから外桝形だったのかも?)

 築城時期・築城主体ともに不明。通説では永禄年間(1558−70年)、一時 大和田佐渡守光盛等に横手城を追われていた小野寺輝道が横手城を回復すると、家督を嫡子の遠江守義道に譲り吉田城に隠居したと伝えられます。その後、輝道の末子 孫市陳道が城主となり、陳道は『奥羽永慶軍記』(客観的史料でないため あまり使用したくないのですが ・・・・・)によると天正14(1586)年の「有屋峠の戦」、同16(1588)年の「峰の山の戦」、慶長5(1600)年の大森城の戦」等に参陣しています。慶長5(1600)年の「関ヶ原」後、小野寺義道は徳川方の最上義光と対峙したため戦後 改易となります。そして吉田城に新たに久保田に入封した佐竹義宣の被官 茂木監物が据えられましたが、元和元(1615)年 監物は横手城に拠を移し吉田城は ほどなく廃城になったものと思われます。
歴史・沿革
吉田城 東側の土塁と濠祉
メモ
小野寺義道の末弟 陳道の居館
形態
平城
別名
西法寺館
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・櫓台・濠(堀)祉
場所
場所はココです
駐車場
路上駐車
訪城日
平成16(2004)年11月6日 平成18(2006)年11月18日 平成28(2016)年6月30日
平成29(2017)年5月18日
大手口(写真左上・右上) 吉田城の虎口は北・南側西寄りに2ヶ所設けられ、このうち南虎口が大手口と伝えられます。でっ、南虎口は南土塁が大規模に切り崩され、西法寺の集合墓地になっているため切り口はハッキリしません。また西縁に導線をカバーしたと思われる土塁が築かれており外桝形虎口だったのかも。
本郭(写真左ー北西側から 写真左下ー南西側から 写真右下ー南東側から) 規模は東西100×南北90mほど、内部は公園整備され、墓地で改変された南土塁を除き、西ー北ー東縁の土塁はほぼ完存しています。
(写真左上) 北土塁 (写真右上) 東土塁
(写真右) 南土塁、相当 切り崩され集合墓地に改変されています。たぶん ・・・・・、土塁南側の車道は改変時に濠を埋めて敷設したのでしょう。
(写真左下) 西土塁、中央部で累線を2度、クランクさせた横矢がけと思われる「折れ」が見られます。
(写真右下) 北側の濠祉、幅10mほど。往時は湿地状の濠と推測され、現在も一部が湿地状になっています。
北東隅の櫓台(写真左上・右上・左) 規模は東西20m×南北20mほど、現在 熊野三吉神社、稲荷神社等五社が祀られています。櫓台としては相当 規模が大きく、吉田城の鬼門にあたります。『平鹿町史』ではここに搦手口に想定していますが ・・・・・
南東部の櫓台(写真左下) 規模は東西7−8m×南北15mほど。
北虎口(写真右下ー搦手虎口) 北土塁の西寄りを切り通した虎口です。
西法寺(写真左上ー仁王門 写真右上ー本堂) 創建時期は不明。戦国末期頃、吉田小野寺氏の菩提寺として、もともと飯詰西法寺森にあった寺院をこの地に移して創建したと伝えられます。境内に小野寺惣領を供養した「念仏供養碑」や「小野寺輝道の墓碑」もあるようです。
ー 動画 吉田城を歩く ー
秋田の中世を歩く