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大浦城は岩木山の南東麓、津軽平野西縁の後流川右岸の微高地(比高10m)に築かれた平城です。城の規模は東西500m×南北250mほど、城縄張りは東西に郭を設けた連郭構造で構築され、西から西郭ー主郭ー二の郭ー三の郭が変則的に配置され、また北側に北郭が、南側に南郭が外郭として設けられてていました。各郭は堀と土塁で仕切られ、堀の一部は後流川の流路を用いた水濠と推測されます。現在、城址の大部分は津軽中学校の校地になり遺構は消滅していますが、主郭は不規則な方形郭で東・西に虎口が設けられ、大手は二の郭の南側に設けられていたようで |

大浦城 概念図 |
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す。また三の郭から二の郭に繋がる虎口に桝形が設けられていたようですが遺構は消滅しています。全体的に規模は大きく、また使用されているパーツ、直線を基調とした塁線は中世の城と言うより近世城郭に近く、大浦城は数度にわたり改修されたものと推測されます。
築城時期・築城主体ともに不明。通説では延徳3(1491)年、十三安藤氏の残党に対する抑えとして津軽西部 種里に入部した南部光信が文亀2(1502)年頃、「鼻和郡大浦郷」の古城が改修して養子の盛信をここに配したとされます。そして大永6(1526)年、光信が種里城で死去し盛信が大浦氏の家督を継ぐと 盛信は大浦氏の支配拠点を大浦城に移しました。天文2(1533)年、津軽に侵攻し大光寺城を攻略した南部右馬允安信は さらに大浦城攻略に動きましたが、南部勢は大浦勢に撃退され盛信は南部と和議を結びます。天文7(1538)年、盛信が死去すると大浦氏の家督は甥の政信が継ぎましたが、天文10(1541)年
政信は和徳城主 小山内満春との戦で討死にし、大浦氏の家督は政信の嫡子 為則が継ぎます。しかし為則が病弱だったため、政務、軍事は弟の堀越城主 守信が代行しましたが、永禄4(1561)年 守信は三戸南部氏の後継問題に介入して南部に出陣し討死にしました。そして為則に嗣子がなかっため同10(1567)年、為則は守信の嫡子
為信を養嗣子に迎えて大浦氏の家督を譲りました。元亀2(1571)年、為信は南部による津軽支配に叛旗を翻し、南部方の石川城、和徳城攻略に動きます。さらに為信は浅瀬石城主 千徳氏と同盟を結び 天正3(1575)年、大光寺城を攻略して南部勢力を津軽から駆逐しました。そして同6(1578)年、浪岡城を攻略して浪岡北畠氏を滅ぼした為信は「津軽一統」に成就しました。その後、為信は同18(1590)年 豊臣秀吉の「小田原の役」に参陣して津軽の所領を安堵され、南部氏から独立した勢力として「豊臣政権」から認知されました。文禄3(1594)年、為信は大浦城が領内の西に偏在しているため領内統治に不向きとし、堀越城を新たな拠点として改修して移り住みました。その後、大浦城は元和元(1615)年の「一国一城令」により廃城となりましたが、津軽藩の施設として利用されたようです。 |
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大浦氏の館城 |
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平城 |
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・・・・・・・・・ |
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郭(平場)・土塁・櫓台・堀祉 |
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場所はココです |
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路上駐車 |
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平成19(2007)年6月20日 |
平成23(2011)年4月17日 |
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大浦城は後流川南岸の微高地に築かれた平城です。(写真左上) 現在、城址は津軽中学校の校地になっていて、このため大部分の遺構は消滅しています。ちなみに南西側から津軽中学校に向う道沿いに「大手門祉」の標柱が(写真右上)、南側から中学校に向う道沿いに「城址碑」と説明板が設置されています。(写真左) なお大手門は弘前城三の丸の賀田門として移築されました。内部の中学校校舎が建っているあたりが主郭(写真左下)、東側のグランドになっているあたりが二の郭・三の郭になるようです。(写真右下) |
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大浦城址で唯一、遺構が明瞭に確認できるのが主郭西側の西郭周辺でしょう。(写真左上) 遺構として主郭・西郭間の幅10mの堀祉と明確な段、さらに主郭側に櫓台と思われる土壇が確認できます。(写真右上) でっ、西郭周囲の堀祉は用水堰に改変されています。(写真右) |
大浦城の建物は弘前城築城時、弘前に移築され、大手門は弘前城三の丸の北門(賀田門、築城時の表門)に用いられましたが、現在は残存せず。(写真左下) また大浦城の台所は津軽氏の菩提寺 長勝寺の庫裏として移築されています。(写真右下) |
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