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子吉館は由利平野の中央西端、水林丘陵の一ピーク(比高70m)に築かれた平山城です。規模は東西200m×南北100mほど、内部は堀で仕切った東西の2郭構造。主郭に想定される東側の郭が東西70m×南北30−40m、西側の郭が東西40m×南北20mほど。両郭を仕切った堀は鞍部を利用したもので、幅5−6m×深さ2−3mほど。大手筋は南東麓からのルートが想定されますが不明。同地は子吉川下流域を眺望できる高所に位置しており、基本的には開発領主の日常居館として築かれたものと思われます。
築城時期・築城主体ともに不明。『由利十二頭記』によると応仁年間(1467−68年)、鎌倉府の命により信濃から入部した大井氏の一族 子吉兵部少輔により築かれたとも。(『由利十二頭記』はイマイチ信憑性が薄く、鎌倉期 由利郡を所領とした大井氏の一族が土着して開発領主になったと想定するのが最も妥当なような ・・・・・) 子吉氏の詳細な事績は不明、子吉川の下流域を領した「由利十二頭」のひとりとされます。永禄年間(1558−70年)、矢島大井氏と滝沢氏が対峙した際、子吉氏は山根館主 仁賀保氏とともに滝沢方に加担したとされます。以後、子吉氏は矢島・仁賀保の抗争に巻き込まれ、天正10(1582)年 子吉館は矢島大井満安の攻撃にさらされています。天正11(1583)年、仁賀保重挙が嗣子なく不慮の死を遂げると、子吉氏から挙晴が仁賀保氏に入嗣して仁賀保氏の家督を継ぎました。しかし同19(1591)年、豊臣秀吉が発給した所領安堵の朱印状に子吉氏の名は見えず、この間
矢島大井氏を滅ぼして由利南部の有力国衆になった仁賀保氏の支配下に組み込まれたものと推測されます。 |