三 又 城
秋田県湯沢市(旧稲川町)駒形町字三又高村、三又森
立地・構造
 三又城は皆瀬川中流域の狭谷地、谷内の独立丘陵上(比高15−20m)に築かれた単郭構造の丘城です。規模は東西100m×南北150mほど、現在、内部は三又神社境内、雑木林になっています。城のある丘陵の西ー南ー南東側は高さ10−15mの段丘崖になっていますが、北東ー北側はなだらかな緩斜面になっていて要害性は薄く、基本的に最低限の要害性を担保した館城として取り立てられたものと思われます。主郭の北縁に幅4−5m×深さ2−3mの東西堀が穿たれ主郭を独立させ、主郭側に天幅3mの土塁痕が見られ、堀に土橋がかけられ導線が確保されています。(たぶん大手虎口か) 現在、内部南側に三又神社が祀られていますが、創建時 内部は相当 改変
三又城 概念図
されたと思われ、内部はケッコウ凸凹しています。なお周囲に「大門」「松館」「本屋布」等の城館に関連したと思われる地名が残されているようです。同地は横手盆地南東部から皆瀬川沿いの狭隘地に入る谷口に位置します。

 築城時期・築城主体ともに不明。金沢八幡神社所蔵の貞治四(1365)年の『大般若経奥書』「二巻 貞治四年六月(いわく) 勧進覚渟取筆源朝臣義冬 四六歳」「六十巻 貞治四年七月(いわく) 大願主覚渟 取筆源朝臣小笠原義冬 四六歳 仙北雄勝郡三俣於満福寺此経書」との記載があり、三又城は南北朝期の貞治年間(1362−68年)頃までに築かれ、小笠原信濃守義冬が拠していたものと思われます。義冬は甲斐源氏 加賀美氏の一族で南北朝期、出羽の南朝勢力鎮圧のため雄勝郡に下向した北朝勢力と推測され、同じく貞治年間(1362−68年) 増田城を築いて居を移していることから、三又城は一時的な居館として既存の城館を利用したものと思われます。永享年間(1429−41年)、光冬の代に小笠原氏は小野寺氏との抗争に敗れ、仙北郡楢岡に退去を余儀なくされましたが、この頃まで三又城は小笠原氏の属城だったと推測されます。(小笠原氏が雄勝郡から退去したのは長禄年間(1457−61年)説もあります) 小笠原氏退去後の三又城の消息は不明ですが、小野寺氏の一族あるいは家臣が居住したと思われ、慶長5(1600)年 最上義光が雄勝に侵攻した際、三股飯館は丹与惣左衛門の田子内城攻めの道案内をしたと伝えられます。
歴史・沿革
三又城 主郭北側の堀
メモ
小笠原氏、入部当初の居館
小野寺氏の一族、家臣の居館
形態
丘城
別名
・・・・・・・・
遺構
郭(平場)・土塁痕・虎口・土橋・堀
場所
場所はココです
駐車場
三又農村公園駐車場
訪城日
平成23(2011)年5月9日 令和3(2021)年5月12日
三又城は皆瀬川の右岸、三又集落と高村集落に挟まれた独立丘陵に築かれた丘城です。(写真左上ー西側からの遠景 写真右上ー南東側からの遠景) でっ、城へは西麓を走る県道沿いの城址標柱から三又集落方向に入り、しばらく進むと左側に三又農村公園があります。城址は現在、三又神社境内になっており、三又農村公園の神社鳥居から参道を設けられています。(写真左)
主郭(写真左下) 規模は東西70−80m×南北150mほど、内部は相当 広く、南側が三又神社境内、北側は雑木林になっています。(写真右下) なお三又神社は小笠原義冬が氏神として創建した三宝荒神社を初源とします。
主郭の北縁に幅4−5m×深さ2−3mの東西堀が穿たれ(写真左上・右上)、主郭側に天幅3mの土塁痕が微かに確認できます。(写真右) でっ、中央に土橋がかけられ導線が確保されていました。(写真左下) たぶん ・・・・・、ここが大手虎口なのでしょう。なお堀は明確に確認できますが、かなり埋まっており土塁を切り崩して埋められたのでしょう。
(写真右下) 主郭から南方向を眺望
三又城 南方向
ー 動画 三又城を歩く ー
秋田の中世を歩く