遣 新 羅 使 の 墓 所
長崎県壱岐市(旧石田町)石田町池田東触
遣新羅使
は天智天皇七(668)年、天智天皇が
「白村江の戦」
以降 冷え込んだ新羅との国交回復を目的として新羅に派遣した使節団で、宝亀10(779)年 派遣された第二十四次使節団を最後に廃止されました。このうち天平8(736)年に派遣された
「第二十次 遣新羅使」
<正使 阿倍継麻呂(あべのつぎまろ)・副使 大伴三中(おおとものみなか)>に随行した
雪連宅満
(ゆきのむらじやかまろ)は航海中に疫病にかかり壱岐で病死し、
「伊波多野」
に埋葬されました。
雪連宅満
は壱岐の卜部(うらべ)出身の官僚で、航海の安全を占う
持斎(じさい)
として随員に加わったものと思われます。
『万葉集巻十五』
には
「至壱岐島、雪連宅満、忽遇鬼病死去之時」
として
雪連宅満
の死に際しての長歌一首、反歌二首がおさめられています。(場所は
ココ
です)
「
伊波多野尓 夜杼里須流伎美 伊敝妣等乃 伊豆良等和礼乎 等波婆伊可尓伊波牟
」
「岩田野に 宿りする君 家人の いづらと我れを 問はばいかに言はむ」
岩田野に眠っておられる君、もしも家の人が、どこにいるのかと訊ねたらどう答えよう。
「与能奈可波 都祢可久能未等 和可礼奴流 君尓也毛登奈 安我孤悲由加牟」
「世間は 常かくのみと 別れぬる 君にやもとな 我が恋ひ行かむ」
世の中はいつもこんなふうに別れが来るものなのか。いなくなった君に はかなく思いを負いながら、私は旅を続けなければならないのか。
墓陵
墓石(墓標)
墓石(墓標)
石碑