岩 出 山 城
宮城県大崎市(旧岩出山町)岩出山字城山
立地・構造
 岩出山城は大崎平野の北西部、江合川右岸の北西から南東方向に張り出した丘陵突端(比高50m)に築かれた平山城です。城の規模は東西450m×南北500mほど、城縄張りは北ー東側のL字状の稜線を加工した要害部要害部に囲まれた西側の微高地に築かれた居館部からなります。本丸は南北に延びた稜線を加工した平場で、規模は東西40−50m×南北210mほど。北側の稜線続きを堀で遮断し、南側に虎口(内門)を設けて南腰郭に繋がっています。本丸の西側下に5−6mの切岸で仕切った二の丸が設けられ、規模は幅15−20mほど、南北に細長い帯状の郭になっていて、数ヶ所で段差が見られ、南側は南腰郭をカバーしています。大手門は城下に連続する東側中央に設けられ 居館部と繋がり、東麓に碁盤目状の城下が構えられていました。同地は陸奥大崎から出羽に繋がる陸羽街道の要地に位置します。 (現地説明板の図

 築城時期・築城主体ともに不明。城主 氏家氏は南北朝期、「奥州探題」 斯波式部大輔家兼に従って陸奥に下向し当初、杉の沢館に居住していましたが、応永年間(1394−1427年) 岩手沢に新たに岩出山城を築き拠したとされます。氏家氏は代々、大崎氏から重用されましたが、16世紀に入ると大崎氏に反抗的な態度をとるようになり、天文3(1534)年 新井田安芸守頼遠が大崎左京大夫義直に謀反を起こした際、氏家又十郎直継は新井田方に加担しています。(「天文大崎の内訌」) しかし義直を救援するため出陣した伊達稙宗の猛攻を受けて、直継は伊達勢に降伏しました。(『伊達正統世次考』) 天正14(1586)年、大崎左衛門佐義隆の寵童 新井田刑部隆景と伊庭野惣八郎の争いは、ふたたび大崎家中を二分する内訌に発展し、氏家弾正吉継は大崎義隆、新井田刑部と対立します。このため進退に窮した吉継が伊達政宗に救援を依頼したため、政宗は大崎領に派兵しました。(「大崎合戦」) そして伊達勢は千石城を拠点に大崎方の中新田城桑折城師山城と対峙しましたが、黒川月舟斎晴氏が大崎方に寝返るなど伊達勢の足並みは乱れ、このため(いくさ)は大崎氏優勢で和睦しました。天正18(1590)年、「奥州仕置」により大崎氏は所領没収・改易になり、大崎領が木村伊勢守吉清に宛がわれると岩出山に木村氏の家臣 萩田三右衛門が据えられました。しかし同年10月、「此月十六日、大崎ノ内玉造郡岩手沢ニ於テ一揆起ル、其近辺所々残リナク蜂起ス、岩手沢城主ハ木村殿家臣荻田三右衛門ト云者ナリ、年貢ヲ督責シテ、百姓ノ妻子ヲ悉ク繋縛ス、其暴悪ニ苦テ・・・・・ 城主三右衛門早朝ニ城中ノ普請所ヲ見巡リ帰ル時節ヲ窮テ。彼越中進出テ三右衛門ヲ斬殺ス」『貞山公治家記録』 天正十八年十月二十三日の条)と三右衛門は「葛西大崎一揆」勃発の発端となった岩手沢の一揆蜂起で殺害されました。そして一揆制圧後、葛西大崎領は伊達政宗に宛がわれ、当初 政宗は岩出山城を拠点とします。しかし政宗は岩出山奥州街道から離れていたため、慶長5(1601)年 新たに新城の築城を開始し、同8(1603)年 仙台城に移り住みました。同年、政宗が仙台に移ったあと、岩出山に政宗の四子 愛松丸(のちの三河守宗泰)が据えられ、岩出山伊達氏が「明治維新」まで在城しました。
歴史・沿革
岩出山城 本丸に建つ伊達政宗像
メモ
中世 ー 「奥州探題」 大崎氏の重臣 氏家氏の館城
近世 ー 岩出山伊達氏の要害屋敷
形態
平山城
別名
臥牛城・岩出沢城・岩出山要害
遺構
郭(平場)・土塁・虎口・堀
場所
場所はココです
駐車場
公園駐車場あり
訪城日
平成23(2011)年5月27日
岩出山城は岩出山市街地西方の丘陵上に築かれた平山城で(写真左上)、蛭沢川と用水堰(写真右上)に挟まれ南東方向に張り出した丘陵先端に位置し、北側の稜線を堀で断って城域を区画しています。(写真左) でっ、城山に囲まれた南西麓に近世 岩出山伊達氏の御殿が構えられていました。岩出山城の大手門はこの敷地東側の通称 二の構に設けらています。(写真左下) 現在、城山へは車道が敷設され、本丸東側の腰郭を経て本丸に繋がっています。(写真右下ー腰郭)
本丸(写真左上) 南北に細長い郭で、規模は東西40−50m×南北210mほど。内部は公園整備され北側に堀を挟んで北物見台があるようですが ・・・・・、通行禁止!!!。(写真右上) また南縁に土塁で固められた虎口(内門)が設けられ(写真右)、南腰郭に繋がっています。(写真左下) 南腰郭の規模は東西50m×南北40mほど、内部に伊達政宗の像が建てられています。さらに南側下にも郭が設けられ(写真右下)、東縁に土塁が見られます。郭の規模は東西60m×南北25m、土塁は高さ1−1.5mほど。
(写真左上) 南腰郭の土塁 
二の丸(写真右上) 本丸の西側下をカバーした郭で、規模は幅15−20mほど、端部は前記した南腰郭の2段目に繋がっています。でっ、南西端に虎口が設けられ、導線は西麓の御殿に繋がっています。(写真左)
(写真左下) 本丸東側下の腰郭
(写真右下) 本丸から南東方向を望む
秋田の中世を歩く