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岩村城は岩村市街地東方の通称 城山に築かれた山城です。(写真左上ー岩村城下からの遠景) でっ、城山の北西麓に近世 大給松平時代に構築された城主居館があり、ここから本丸までのルートが大手筋だったのでしょう。(写真右上ー城主居館祉) 城主居館の規模は東西70m×南北130mほど、現在 郭内西部に歴史資料館が建設され、また大手口に表御門や太鼓櫓が復元され、藩校
知新館の正門が移築されています。(写真左・左下ー復元太鼓櫓表門 写真右下ー知新館の正門) |
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(写真左上) 藩校 知新館の正門、知新館は元禄15(1702)年に創立された岩村藩の藩校です。 |
城山へは城主居館の脇に「岩村城登城口」の石碑が設置され、旧大手筋をトレースした登山道が設けられています。(写真右上) でっ、途中の麓部分に「下田歌子学問所」(写真右)などの平場群が残存しています。下田歌子は岩村藩士を父とする明治の教育者らしいのですが ・・・・・、知りませんでした。(汗) でっ、このあと登山道は「藤坂」と呼ばれる石畳道になり(写真左下)、その後、大手筋は大きくクランクして有事の際の臨時の門「初門」に繋がっています。(写真右下) |
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一の門(写真左上ー説明板の図) 『享保三年 岩村城絵図』によると虎口には二層の櫓門に連続して多聞櫓が構えられていたようです。(写真右上) でっ、多聞櫓の石垣上に大手筋を監視すべく番所が設けられていました。(写真左) |
土岐門(写真左下ー説明板の図・右下) 岩村城の二の門。『享保三年 岩村城絵図』によると薬医門だったようです。でっ、導線はここでクランクして本城方向に繋がっています。なお土岐門は廃城後、徳祥寺の山門として移築され現存しているようですが未確認。 |
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(写真左上) 土岐門内部のクランク |
畳橋(写真右上ー説明板の図・右) 橋は石垣で構築された基壇(写真左下)からかけられ、左折して郭内に入るように設定された桝形構造だったようです。でっ、現在の登山道はその橋下の堀を通って郭内に入りますが、この堀はL字状にクランクし
山際と畳橋基壇を画す堀になっています。(写真右下) なお畳橋の名称由来は橋の底板を畳のようにめくることができたからで、あくまで有事を想定したものだったのでしょう。 |
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『享保三年 岩村城絵図』によると大手導線は畳橋で左にクランクして桝形空間と思われる平場に入り、さらに右⇒左にクランクして大手門(追手門)に繋がっています。(写真左上ー現地説明板の図)
この部分は現地ではわかりずらいですが、畳橋の前面のL字状に折れた石垣上に畳橋を見下ろすように三重櫓が構築され、この脇に桝形空間が設けられていたようです。(写真右上・左) |
追手門(大手門 写真左下・右下) 城内最大の櫓門だったようです。導線は微妙にクランクしながら城門に入ります。 |
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龍神の井(写真左上) 岩村城内最大の井戸。昭和60(1985)年に復元。 |
霧の井(写真右上) 岩村城の別名 霧ヶ城のもとになった井戸。敵に攻められて時、城内秘蔵の蛇骨を井戸に投げ入れると霧に覆われて城を守ったという伝説があるようです。 |
八幡神社(写真右・左下) 遠山氏の祖 加藤次景廉を祀った神社です。本殿は現在、岩村城下に移築されているようです。(未確認) |
菱櫓(写真右下) 二の丸東側側面に構築された高石垣。 |
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(写真左上) 菱櫓の高石垣 |
六段壁(写真左・左下) 本丸の北東面に構築された雛壇状の六段の高石垣。他の城郭には類例のないレアな遺構です。もともと『享保三年 岩村城絵図』(写真右上)に見られるような最上段のみの石垣でしたが、のちに石垣の崩落を防ぐために下部の岩盤に石垣が構築され、現在の形態になったそうです。 |
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六段壁の側面には東曲輪の北門が構えられています。(写真左上・右上・右) でっ、虎口上に二層の櫓門が、連続する側面の石垣上に多聞櫓が建てられていたようです。(写真左下) 石垣は近世初頭と推測される打込ハギ、隅部は算木積みで処理されています。 |
(写真右下) 『享保三年 岩村城絵図』の東曲輪部分 |
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東曲輪北門から本丸長局埋門への大手導線は外桝形状の導線になっています。(写真左上) でっ、『享保三年 岩村城絵図』によると長局埋門の石垣上に多聞櫓が構えられ、虎口には正面の本丸側から横矢がかかる構造になっていました。(写真右上・左) |
(写真左下) 本丸の北石垣 |
(写真右下) 本丸の北東隅 |
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(写真左上) 『享保三年 岩村城絵図』の本丸部分 |
(写真右上) 本丸の西石垣 |
長局埋門から本丸への導線は本丸側面(長局と呼ばれる帯郭)で一度 クランクして東口門に繋がるように設定されていした。でっ、東口門は本丸の表門にあたり、内部は桝形構造だったようです。(写真左下・右下) |
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(写真左) 本丸に建つ「岩村城歴代将士慰霊碑」 |
本丸(写真右上) 規模は東西40m×南北60mほど。『享保三年 岩村城絵図』によると北西、南西隅に二層の櫓が、東西の縁部に多聞櫓が構えられていました。(写真左下ー西多聞櫓 写真右下ー東多聞櫓) また南東隅に昇龍の井戸と呼ばれる水の手が残存しています。 |
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(写真左上) 本丸南東隅の昇龍の井戸 |
本丸の北側中央には北門⇒北埋門が設けられ、二の丸に繋がっていたようです。(写真右上ー『享保三年 岩村城絵図』) でっ、北門は小規模な桝形構造。(写真右・左下) ここで導線は左方向にクランクして北埋門に繋がっています。(写真右下) 『享保三年 岩村城絵図』によると北埋門には櫓門が採用され、側面に二層の櫓(納戸櫓)が構えられていたようです。 |
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(写真左上) 北埋門 |
(写真右上・左) 二の丸門、『享保三年 岩村城絵図』によると本丸の北東隅下に構えられた二層の櫓門。導線は二の丸に繋がるとともに、本丸の北埋門にも繋がっています。 |
(写真左下) 本丸から西出丸を望む |
(写真右下) 城主居館から岩村城下を望む |
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岩村城下は本町通りと呼ばれる岩村川に沿った東西道路を中心に形成され、古民家が多数 残存しています。(写真左上ー本町通り下町界隈 写真右上ー本町通り上町界隈) でっ、本町通リの中央に城下町特有の「鉤折 桝形」が設けられ敵の侵入を制約するとともに、通りを見通せない構造になっていました。(写真右・左下) 「桝形」は周囲を土塁で囲った方形空間で、上町側に木戸が設けられ、木戸の周囲に下目付、町同心小頭、町同心の長屋があったようです。 |
(写真右下) 浅見家、江戸後期の大庄屋。 |
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