雨 森 芳 洲 の 墓 所
長崎県対馬市(旧厳原町)厳原町日吉(長寿院境内)
 雨森芳洲は江戸中期に活動した対馬藩の朝鮮担当の官吏です。寛文8(1668)年、近江国伊香郡雨森村(現在の長浜市高月町雨森)の町医者の子として生を受けた芳洲は貞享年間(1684-88年)頃、江戸へ出て朱子学者 木下順庵の塾に入ります。そして芳洲は同門の新井白石、室鳩巣、祇園南海らとともに「木門十哲」のひとりに数えられ、元禄2(1689)年 順庵の推薦により対馬藩に仕官し、同5(1692)年 対馬に赴任しました。そして芳洲は元禄11(1698)年、対馬藩の朝鮮方役に任ぜられ、同15(1702)年から釜山の倭館に滞在して同18(1705)年まで朝鮮語を学んでいます。また芳洲は正徳元(1711)年の六代将軍 家宣の代と享保4(1719)年の八代将軍 吉宗の代に李氏朝鮮から派遣された将軍就任祝賀の「朝鮮通信使」に随行して江戸へ赴いています。その後、芳洲は享保5(1720)年、李氏朝鮮 景宗の即位を祝賀する対馬藩の使節団に参加して朝鮮に渡りましたが、翌6(1721)年 対馬藩の朝鮮政策に対する不満から職を辞して家督を嫡子の顕之允に譲り隠居しました。そして芳洲は自宅に私塾を設けて藩士の教育にあたるとともに著作活動に没頭し、享保19(1734)年には藩政に関する上申書 『治要管見』を著しています。宝暦5(1755)年、死去、享年 八十八。墓所は厳原日吉の長寿院にあります。(場所はココです)
雨森家の墓所 
雨森芳洲の墓 
(左)芳洲夫人の墓碑 銘は「小河孺人之墓」
(中)芳洲の墓碑
(右)芳洲の嫡子 顕之允の墓碑 銘は「雨森鵬海先生之墓」
雨森芳洲の墓碑
諡は 一得斎芳洲誠清府君
長寿院 
正式名称は坎亀山(あながめやま) 長寿院」。臨済宗南禅寺派の禅寺。芳洲の墓所は長寿院背後(北側)の小高い丘にあります。