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宗 材 盛 の 墓 所 |
長崎県対馬市(旧厳原町)厳原町天道茂(醴泉院) |
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宗刑部少輔材盛は対馬宗家十代当主 刑部少輔貞国の次男として15世紀中期に出生したとされます。父 貞国はそれまで分裂状態にあった宗庶子家を制圧し、拠点を佐賀から府中に移しました。そして貞国は延徳4(1492)年、材盛に家督を譲ると隠居したとされます。当時の宗氏は李氏朝鮮との交易を経済基盤としていましたが、嘉吉3(1443)年に結ばれた「嘉吉約定」以後、李氏朝鮮は交易に制限をかけるようになりました。そして材盛の代の明応7(1498)年、李氏朝鮮は対馬の重要な輸出品である銅の輸入禁止を通告してきました。このため困窮した対馬島民は三浦(釜山周辺)に移住し、また一部が倭寇化したため、材盛は李氏朝鮮との軋轢に苦しむこととなります。そうしたさなかの永正4(1507)年、材盛は死去し宗家の家督は嫡子の讃岐守義盛が継承しました。(場所はココです) |
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醴泉院 本堂
宗派は天台宗、御本尊は薬師如来、千手千眼観世音菩薩。 |
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