()国の御首塚
長崎県対馬市(旧厳原町)厳原町下原
 宗右馬允()は対馬宗家初代 重尚の末弟とされ、宗家二代当主と伝えられる鎌倉中期の武将です。宗氏は太宰府の在庁官人 惟宗氏の一族で、重尚の代に対馬に入島し、対馬の在庁官人 阿比留氏を駆逐して「対馬島主」になったと伝えられますが、史料上で重尚の存在は確認できず、助国が史料上 確認できる最初の宗家当主とされ、助国は対馬国守護職 小弐氏の代官をつとめていたものと思われます。そして この助国の代に元は日本侵攻を本格化させます。(元寇 「文永の役」) 鎌倉後期に成立した八幡愚童訓(はちまんぐどんきん)によると文永十一(1274)年十月五日、元・高麗の軍船が対馬西岸 佐須浦(現在の小茂田浜)に接岸し上陸したとの報が対馬府中に入ります。このため対馬国守護代をつとめる助国は八十余騎の手勢を率いて佐須浦に向かい、通詞を介して事情聴取をしましたが、突如 元軍から矢を射かけられました。そして助国は陣営を立て直すものの、衆寡敵せず 子の右馬次郎や養子の弥次郎、庄の太郎入道、肥後の御家人 田井藤三郎等とともに玉砕・討死にしたと伝えられます。塚は助国とその郎党の亡骸を葬った場所だったのでしょう。なお助国の墓所は一般的には「小茂田浜の戦」で討死にした戦死者を祀る小茂田浜神社とされます。
御首塚 
塚は観音堂境内にあります
御首塚 
御胴塚 
塚は法清寺境内にあります。
御胴塚 
手足塚 
塚は若獅子神社境内にあります。
手足塚 
太刀塚 
塚は銀山神社境内にあります。
太刀塚 
小茂田浜