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谷地城は村山盆地の中央西部、最上川左岸の微高地に築かれた平城で、主郭・外郭からなる輪郭構造の城郭と想定されます。主郭の規模は推定 東西120m×南北260mほど、周囲は濠で囲郭され外郭と仕切られ、南側に大手口が、北側に搦手口が構えられていたようです。外郭部分に家臣屋敷地が配置され、有事の際の砦として利用されたものと推測されます。また外郭部の南側に部分的に町屋が配置され、近世の城下町に近い構造をしていたと推測されます。現在、遺構等は宅地化で消滅していますが、主郭北東隅(谷地城の鬼門)の土塁が残存し三社宮が祀られています。
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谷地城は南北朝期、村山郡の最上川西岸に入部した中条氏によって築かれ、永禄年間(1558−70年)頃、谷地に進出した白鳥館主 白鳥十郎長久が整備・改修したと伝えられます。白鳥氏の出自は不明ですが、古代陸奥の俘囚長 安倍頼時を祖とする説、寒河江大江氏の庶流とする説があるようです。南北朝期、白鳥氏は寒河江大江氏とともに南朝勢力に加担し、『後太平記』に白鳥冠者義の名が見られ、寒河江大江氏と密接な関係にあったされます。白鳥氏は永正9(1512)年、庄内の争乱(大宝寺武藤氏 vs 砂越氏)に際して山形城主 最上修理大夫義定に与して寒河江に出陣し、また同11(1514)年 伊達稙宗の「村山侵攻」に際して最上、天童、寒河江連合軍に与して長谷堂城で伊達と対峙しています。その後、伊達統治下の村山郡で白鳥氏は天童氏と結んで反最上の立場をとり、天文11(1542)年に勃発した「天文 伊達の乱」の際 伊達稙宗から最上義守への援軍の仲介を白鳥氏に依頼するなど、最上川西岸の有力国人に成長しました。永禄年間(1558−70年)、白鳥館から谷地に拠点を移した白鳥十郎長久は、内政では谷地城下町の整備、産業の振興を推進して領国支配を執り行い、外政で最上氏に対抗するため伊達輝宗と結ぶほか、織田信長とも誼を通じています。天正3(1575)年、最上家の家督を継いだ最上出羽守義光は同5(1577)年、反最上の旗頭
天童城主 天童和泉守頼貞(「天童八楯」の領袖)を攻撃し、同8(1580)年 上山満兼の上山城を攻略、さらに同年 「小国郷」に侵攻して天童氏と同盟する細川摂津守直元の小国城を攻略しました。そして同9(1581)年、庄内武藤氏の支配下にあった鮭延城を攻略して鮭延越前守秀綱を降伏させ、北村山・最上郡を制圧しました。さらに最上川西岸への進出を図る義光は、白鳥氏との衝突を避けるため嫡子の修理大夫義康と十郎長久の娘との婚姻を結びましたが、天正12(1584)年
義光は急病を装い長久を山形城に誘い出して謀殺しました。長久なきあとの白鳥氏家臣団は谷地城に籠城し、同盟する寒河江氏、溝延氏とともに最上と対峙しましたが、最上勢の猛攻を受けて谷地城は陥落しました。その後、最上統治下の谷地城に斉藤伊予守高頼が拠しましたが、慶長5(1600)年の「慶長出羽合戦」で上杉勢の攻撃を受けて落城。元和8(1622)年 「最上騒動」により最上家は改易となり谷地城も廃城。 |
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村山郡の在地国衆 白鳥長久の館城 |
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平城(方形館?) |
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場所はココです |
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河北町役場駐車場借用 |
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平成20(2008)年7月15日 |
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谷地城は宅地化により城郭遺構は完全に消滅していますが、主郭の北東隅(谷地城の鬼門)の土塁痕上に三社宮が祀られ、櫓台だったと推測されます。(写真左上) 主郭は東西120m×南北260mと広い空間になっていて、周囲は濠で囲まれていたようです。(現在は遺構はありません) でっ、主郭の西(写真左ー西小路)、北(写真右上ー内楯)、東(写真右下ー中楯)、南側(写真左下ー前小路)に外郭が構えられていたと想定されます。なお大手虎口は南側に開き前小路に繋がっていたようです。 |
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東林寺(写真左上) 白鳥氏の菩提寺。白鳥長久が谷地に拠点を移した際、東林寺も白鳥から谷地に遷されたと伝えられます。境内に天正12(1584)年、山形城で誘殺された白鳥十郎長久の墓碑が弔なわれています。(写真右上) |
谷地八幡(写真右) 寛治5(1091)年の「後三年の役」の際、源義家が白鳥に勧進したと伝えられる鎮守社。後に白鳥氏が信奉し、白鳥十郎長久が谷地に遷したと伝えられます。 |
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