角館城下は檜木内川左岸の平野部に計画建設された南北に細長い城下町です。城下は大きくは中央部に設けられた「火除地」(中央に土塁を設けた東西に細長い広場)によって北側の内町(武家屋敷)と南側の外町(町屋、寺社、武家足軽屋敷)に分けられていました。街路は基本的に直線状に敷設されていますが、要所に城下町特有の鍵折れの「桝形」を設けて見通しを遮断するとともに一気呵成に攻められないよう工夫されています。現在、残存する街路はほぼ100% 往時のものをトレースしたものです。 |
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角館城下は檜木内川の東岸、小松山(古城山)南麓の平野部に建設された近世の計画都市です。(写真左上) でっ、町割りの基準になったのが古城山の南西麓に構えられた蘆名氏の居館(写真右上ー現在は某宗教法人の施設)、ここからメインストリートが南方に延び(写真左ー表町上丁)、この通路に交錯するように小路が敷設されていました。でっ、城下は「火除け地」と呼ばれる東西に細長い広場で北側の内町(武家屋敷)と南側の外町(町屋、寺社、足軽屋敷)に分けられています。(写真左下ー「火除け地」) |
小野崎家住宅(写真右下) 小野崎氏は常陸国久慈郡発祥の佐竹家の重臣。 |
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石黒家住宅(写真左上・右上) 石黒家は佐竹北家の財政を担当した家臣と伝えられます。 |
青柳家(写真右) 青柳家は蘆名義広に従って角館に入部した奥会津衆。蘆名氏断絶後、佐竹北家に仕えました。門は規模の大きい藥医門形式、屋敷割は間口が広くなっています。 |
南北に細長い内町(武家屋敷)は中央に「桝形」が設けられ、南北に分けられています。(写真左下) でっ、「桝形」の南側が勝楽町と呼ばれています。(写真右下) |
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岩橋家(写真左上・右上) 岩橋家は蘆名義広に従って角館に入部した奥会津衆。蘆名氏断絶後、佐竹北家に仕えました。屋敷は江戸末期に改造され、屋根は茅葺きから木羽葺きに替えられました。 |
河原田家(写真左・左下・右下) 河原田家は蘆名義広に従って角館に入部した奥会津衆。(たぶん会津四家 河原田氏の庶流でしょう) 蘆名氏断絶後、佐竹北家に仕えました。屋敷は江戸期の武家屋敷様式を残し、表座敷はこの地方の普遍的な書院洋式になっています。 |
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小田野家(写真左上・右上・右) 小田野家は山入佐竹氏の庶流で、蘆名義広に随行し角館に入部した小田野重家を祖とします。蘆名氏断絶後、佐竹北家に仕え、江戸中期の「秋田蘭画」家 小田野直武はこの一族にあたります。屋敷は明治33(1900)年の大火により焼失しましたが、再建されたもの。屋敷内に伝統的な庭園が残っています。 |
松本家(写真左下 右下ー小人町界隈) 勝楽丁の裏側(小人町)に残る下級武家屋敷。松本家は今宮家組下として角館に入部し、当初 田町に屋敷を持っていましたが、佐竹北家以後
現在の小人町に屋敷を構えました。 |
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