源 頼 朝 の 墓 所
神奈川県鎌倉市西御門
 源頼朝は河内源氏の領袖 源義朝の三男(嫡子)として久安3(1147)年、母の実家である熱田神宮の宮司 藤原季範邸で出生したとされます。平治元(1159)年、「平治の乱」に敗れた義朝は頼朝を連れて東国を目指しましたが、途中で頼朝は一行からはぐれ近江国で捕縛され六波羅に送られました。そして同2(1160)年、頼朝は伊豆国蛭ヶ小島に配流されました。蛭ヶ小島時代の頼朝の詳細な事績は不明ですが、頼朝は乳母 比企尼の援助を受け、比企尼の娘婿 安達盛長、河越重頼、伊東祐清が近侍していたとされます。治承4(1180)年4月、後白河法皇の皇子 以仁王の「平家追討」の令旨が叔父 源行家より頼朝のもとに届けられます。そして頼朝は同年8月、蛭ヶ小島で挙兵し伊豆国目代 山木兼隆の山木館を急襲して兼隆を討ち取ります。その後、頼朝は同月の「石橋山の戦」に敗れるものの安房に渡って勢力
伝源頼朝の肖像
を盛り返し、同年10月 鎌倉に入りました。そして文治元(1185)年3月、平家を滅ぼした頼朝は同5(1189)年、「奥州藤原討伐」を決行して治承から続く内乱を終結させました。建久元(1190)年、上洛を果たした頼朝は後白河院に謁見し、同3(1192)年7月 頼朝征夷大将軍に任ぜられました。同9(1198)年、頼朝は相模川で催された橋供養のあと体調を崩し、翌10(1199)年1月11日 出家し、13日 死去しました。享年 五十三。頼朝の遺骸は大蔵幕府に隣接した頼朝持仏堂(後の法華堂)に葬られたと伝えられます。(場所はココです)
(頼朝の戒名)   「武皇嘯厚大禅門」
法華堂祉 
頼朝が葬られた法華堂は鎌倉御家人から神聖視され、建暦3(1213)年に勃発した「和田義盛の乱」の際には三代将軍 実朝、執権 北条義時がここに逃れ、宝治元(1247)年に勃発した「宝治の乱」の際、三浦泰村が一族郎党とともに法華堂に籠り自害したと伝えられます。
白旗神社 
江戸期、法華堂は鶴ヶ岡八幡宮の子院 相承院が別当をつとめていましたが、明治初年の「廃仏毀釈」により法華堂は廃され、明治5(1872)年 白旗神社が創建されました。
源頼朝の墓所 
現在の頼朝の墓石(層塔)は安永8(1779)年、頼朝の子孫とされる島津藩主 島津上総介重豪(しげひで)により建立されたものと伝えられます。なお本来の法華堂はこの地にあったようです。
源頼朝の墓所