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三 浦 泰 村 一 族 の 墓 所 |
神奈川県鎌倉市西御門 |
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三浦泰村は鎌倉初ー中期の有力な鎌倉御家人、幕府「評定衆」のひとりです。三浦氏は桓武平氏 平良文を祖とし、平安中期 良文の五男 駿河守忠光が相模国「三浦荘」に入部して「三浦」を称したとされます。治承4(1180)年、源頼朝が平家打倒の兵を挙げると「三浦の棟梁」大介義明、新介義澄父子は三浦一族を率いてこれに参加し、戦後 義澄は相模国の守護職に任ぜられ、一族は有力な鎌倉御家人となり、各地に領地を宛がわれました。泰村は義澄の次男 三浦介義村の次男で駿河次郎を称していました。義澄の代、三浦氏は北条氏に匹敵する勢力を保持していましたが、義村の代に北条氏は執権職を占有して幕府を私物化します。そして泰村の代になると泰村は執権 北条泰時を烏帽子親とし、泰時の娘を娶って北条氏の一門衆となり、暦仁元(1238)年 幕府の「評定衆」に任命され幕政に参画しました。そして泰村は幕府内での三浦氏の発言力を強めるため将軍 藤原頼経に接近します。さらに頼経の側近には北条得宗家に不満をもつ名越朝時、光時父子等の北条庶子家も加わり、頼経の御所には反執権勢力が形成されました。このため執権
北条経時は寛元2(1244)年、反執権勢力を解体するため頼経の将軍職を解任させ、頼経の嫡子 藤原頼嗣を次期将軍に擁立しました。寛元4(1246)年、執権 経時が死去し次弟の時頼が執権職に就任すると、名越光時等の反執権派の御家人は時頼排斥に動きます。(「宮騒動」) この際、泰村はこの計画に関与しませんでしたが、弟の能登守光村がこれに関与しています。しかし乱後、時頼は三浦氏との無用の軋轢をさけるため光村を不問としました。そして時頼はその後も三浦氏との諍いをさけていましたが、宝治元(1247)年
時頼の外戚で三浦氏排斥の急先鋒 安達景盛が鎌倉に戻ってきます。鎌倉に戻った景盛は時頼に三浦氏討伐を説き、また一方で三浦氏を挑発します。しかし泰村が動かなかったため、6月5日 景盛は孫の泰盛に三浦館襲撃を命じます。そして三浦館には急を聞いた三浦一族や縁者、反執権派の御家人が駆けつけ、北条・安達勢と対峙しました。しかし泰村にはもはや戦をする意思はなく、泰村は一族郎党および与党の御家人を引き連れて源頼朝の墓所 法華堂で自害したと伝えられます。(「宝治の乱」) これにより相模三浦氏の嫡流は途絶え、傍系の会津蘆名氏の庶子家 佐原氏が「三浦介」を継承しました。(場所はココです) |
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